先に「■陽気に誘われて」で「於御城表御禮被為 受圖」をご紹介した。
私が興味を持ったのは、復元された本丸御殿の「昭君之間」などがどの様に利用されていたかということであった。
清正が秀頼公を迎えるため?に作られたと伝えられる「昭君之間」は、大広間(桐の間・櫻の間・梅の間・鶴の間)の奥「若松の間」の右奥にあり、大広間からは見えない。
この「於御城表御禮被為 受圖」は、すでに隠居していた齊茲(諦了院・この時期浜町様と呼称す)が文政九年七月、城内において御禮を受けられる際の状況を記す図面である。
若松之間の桐之御間に間近い場所に「御」という書き込みがあり、この場所に浜町様は座着されたものと思われる。
左後ろに御小姓が居り、右後ろには御取次が控えている。そして「昭君之間」には、若松之間に向かって、御用人・御取次・御小姓役四人計六人が並び居る。
反対側の入側には10人の非番御用人+御次着座が控える。同じく入側の少し下った場所に大御目附二人が座す。
御家老衆は桐之間の床の間を少し下がった場所(桜之御間か)に列座(裏に家老の間がある)、反対側の入側には御備頭や御留守居その他(判読不可)の人が居並んでいる。
この図の書き込みによると二日目とあるから、家格の高い人たちはすでに御禮を済ませていることになる。二日目から大寄せであり、しつらえが変わったことを意味する。
さて御禮を申し上げる人たちはどこに居たのか。書き込みに「桜之御間外迄並居」とあるから、ここに記されている「水鳥之御間」に控えていたのであろう。実は現在の熊本城本丸御殿の資料を見ると、この「水鳥之御間」は「梅之御間」と紹介されている。
いつのころから「水鳥之御間」と呼ばれているのか不明だが、新発見である。現代における表示に梅之間とあるのは、どうやらこれは加藤時代の熊本城図を踏襲しているらしい。
梅之間に続いて大きな鶴之間があり、ここまで使って居並んだのであろう。御禮を申し上げる人達は「長上下」の正装であろうと思われる。
御規式の決まり事からすると、家臣の人たちはその家格により進席する場所が決められているのだろうが、それでも精々「桜之御間」の敷居から少々進むくらいの事であったろうと思われる。
映画やTVドラマのように至近で拝謁することはこういう公の席ではありえないことである。
距離があり殿様の声が聞き取れないことも多々あり、その時は家老が其旨を再度伝えたとも伝えられる。
こういう絵図にふれると、そのシーンが浮かびあがる思いである。