津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■標準木はまだの様ですが・・

2019-03-22 18:08:33 | 熊本

 昼食後暖かさに誘われて散歩に出る。いつものコースにある桜並木の一本/\の咲き具合を確認しながら歩を進めたが、結構開花している。
全てがこんな具合ではないが、開花宣言があって良い状態である。
(熊本の桜の標準木は、熊本地方気象台が入居している熊本駅近くの合同庁舎の敷地内にある)

           

 自衛隊南側に建設中の熊本市民病院の工事の進捗状況などを眺めながら、少し先の本屋さん迄足を延ばし、帰りには花屋さん・ホームセンター等で都合一時間ほどウロウロして帰路に就く。
最近は老人性平衡感覚異常なのか、まっすぐ歩くことが難しくなってきた。
巾30㎝ばかりの範囲で右に行ったり左に行ったりするのが自分でもよくわかる。
速足での歩行が出来ずに、我家にたどり着くのに都合2時間ほどを要した。

春の風が誠に気持ち良い。よろり/\しながら、毎日花見気分で散歩を皆勤しようと思っている。(270日皆勤と相成りました)




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■熊本藩の刑法

2019-03-22 07:40:41 | 史料

 藩法研究会編「藩法集 7 熊本藩」の全984頁を完了して、脱力感が半端ではない。
毎日小難しい文章をタイピングしなくてよいという安堵感が強いが、一方今日からは何を取り上げようかという不安感がじわじわと襲ってきている。
最後に「御刑法方定式」を9回にわたってご紹介してきたが、私の手元に「御刑律 乾上」というA3サイズの64頁に及ぶコピーがある。
その「御刑法方定式」の許になったものと思われ、刑法と量刑が詳しく記されている。
当然古文書故これをご紹介するには読み下しが必要であり、これはとても手に負えない。

 宝暦の改革に於ける優れた成果となった細川藩のこの「御刑法」は下って明治新政府に至って、新しい刑法の見本となった。
つまり新政府は刑法典を緊急に必要とし、明治元年細川護久(当時澄之助、三年後に藩主)をして「刑法事務科」の総督に任命して仮刑律の起草に当たらせたのである。

細川藩によって先んじて設けられた徒刑場や、其の後の江戸・石川島の人足寄場の創設などの形が取り始められ、新たな刑法典における自由刑の思想の土台になった。
これ等の事については、WEBサイトに「刑罰の変遷 ~近代自由刑の源流~」という、大変優れた論考が掲載されている。
お名前をあげてご紹介すべきであるが、記名が見当たらない。この中の第三節に「熊本藩徒刑場」があり、まことにくわしくまた判りやすく取り上げられている。
ここにご紹介してご一読をお勧めする。

第三節 熊本藩徒刑場

 幕府の公事方御定書制定に倣い、諸藩でも刑法典の編纂が盛んに行われた。特に熊本藩の御刑法草書では、幕府の人足寄場よりも早く徒刑制を採用している。これは明らかに犯罪者の更生と社会復帰を目指す特別予防思想がみられるものであり、江戸時代後期の刑事政策に与えた影響は極めて大きいものであった。ではその従来の刑政の常識を破った、先駆的制度はいかなるものであったのだろうか。

(1)御刑法草書の制定と徒刑の採用

 熊本藩は宝暦4(1754)年、全国に先駆けて徒刑を採用した。追放刑は犯人を追いやるだけで、犯人を改悛・更正させ、社会復帰をはかる上では何の役にも立たないと、当時、多くの儒学者達から批難されていたが、幕府や多くの藩はこの意見を採用する事が出来ずにいた中、当時としては画期的な制度であった。また、荻生徂徠が「政談(※1)」の中で、徒罪の採用を主張していることから、その影響も考えられる。
 それまで熊本藩の刑は幕府や他藩と同様に追放刑中心の刑罰体系を採っている。幕府が享保の改革の重大な柱として「公事方御定書」を編纂したのに対して、熊本藩でも細川重賢が第6代藩主に就任すると、宝暦の藩政改革を実施し、財政の立て直しをはかるとともに様々な方面の刷新を推し進めた。刑法の刷新も改革の重要な柱であり、宝暦5年(1755)4月には本文58条附録1条の「御刑法草書」を施行し、ついで同11年(1761)の末頃にはこれを大幅に増補改訂して「刑法草書」(18編95条目142条)を施行に移した。
 熊本藩はこの刑法改革により、従来から弊害と矛盾の多かった追放刑を原則として廃止し、代わって新しい刑罰思想のもとに答刑・徒刑・入墨刑を採用した。この徒刑というは、犯罪者を施設に収容して社会から隔離し、犯罪から社会を守るという社会防衛の機能がある。さらに重要なことは、熊本藩徒刑が収容期間中に徒刑囚を教化改善して社会復帰を目指す刑罰で、特別予防思想が見られるということである。
 熊本藩の徒刑制度では、囚人に対して辰刻(午前8時)から未刻(午後3時)まで強制労働を課し、晴天には城内外で堀・井戸・道などの肉体労働を作事所役人監視の下で従事し、雨天には小屋内作業場で藁細工などに従事するといった日々の労働にあたらせていた。それに対して1日当たり米1升を支給する作業有償制、その賃金の何分の一かを天引きして貯蓄させる強制積立の制、その強制積立金を釈放時にまとめて支給して生業に就くための資金に充当させる元手の制という一連の処遇法を備えている。注目すべきこととして、1日の作業以外に小屋で作った草鞋・草履などの藁細工製品を市中で売ることが許され、その代金もまた積み立てて生業資金に充足した。
 また、囚人を収容する小屋(定小屋)を建て、揃いの紺染めの衣服を着せ、さらに収容中の目印や、脱走防止のために5日毎に眉毛を剃落すので、そのため徒刑は一般にはの刑、徒刑囚は眉無、徒刑小屋は眉無小屋と呼ばれた。眉毛はやがて生揃うのであるから、この処遇法は何ら更生の妨げにならない。このように、熊本藩は徒刑囚に対して様々な配慮を払っているのである。
 以上のように熊本藩の徒刑は労働に対して小額ながらも報酬を与え、そしてその中から何割かを積み立てて、釈放時の就業資金に充てた。加えて、小屋内における自主労働による藁細工製品を売った代金も自己のものとして積み立てることができたのだ。
 刑期が満了し、釈放される徒刑囚には、積み立てた資金を与え、開墾地や農具、更には家のないものには竹や木材などを無償支給することもあったようだ。釈放者は原則として親類に引き渡すこととなっているが、親類がいないなど、引き渡し手がいない場合は出身地の者に引き渡した。その際に、教諭を加え、親類はもちろん五人組にも釈放者に対する面倒を見るように指示が出されていた。出身地の者に引き渡す場合は、庄屋・村役人を呼び出して教諭を加え、釈放者の保護を命じた。さらには「生業仕付」と称して、就業の世話を庄屋・別当などの村役人・町役人および親類・五人組に命じ、更生の実現を図っている。このように保護観察を行っていたのである。

 このような徒刑制であるが、この採用によって刑罰の執行数がどう変化したのであろうか。これに関して、享保10(1725)年から20年までの11年間と、安永元年(1772)年から文化10(1813)年までの42年間について、熊本藩での処刑実数の統計が判明しているので具体的な数字を挙げてみたい。これを享保のもの(A)、徒刑が採用された後である安永以降のものを前半(B)、後半(C)の3期に分け、死刑・追放刑(宝暦5年以降は徒に対応)の年平均推移を見ると、死刑はA8.5人、B2.7人、C9.0人であり、追放または徒刑はA42.5人、B103.1人、C173.8人となる。死刑についての宝暦以後の減少が目立っており、これは「御刑法草書」がそれ以前に比べて死刑適用を抑制した結果と考えられる。しかし、寛政以降、全国的な治安の悪化などの要因が絶対的犯罪増加が死刑数を享保レベルまで引き上げ、死・徒刑も著しく増加している。
 このように徒刑を採用した当初はそれなりの効果が見られたが、次第にその効果が疑わしくなっている。以下、この徒刑制度の中断・再開を通じて、その効果について検討してみたい。

※1政談 経世論を説き、古文辞学派の祖となった荻生徂徠の著書。徳川吉宗の諮問に答え、礼楽制度の樹立、貨幣経済抑制、武士帰農論などを説く。

(2)徒刑中断

 この誇るべき徒刑制であったが、文化2(1805)年から文化11年までの9年間、停止されることとなった。徒刑中断の発端は白石清兵衛の提言にある。文化元年(1804)4月10日、白石は2つの理由を挙げて徒刑の廃止されるべきことを、先輩格の島田嘉津次に宛てて提言した。理由の1つとして更正改善効果が不十分であったことが挙げられる。囚人達は収容小屋の中で仲間同士、悪事を教え合い、改悛しておらず、悪風に染まるという弊害が存し、改善の効果が認められないということである。2つの目理由として、こちらが主な理由なのだが、藩の財政悪化が挙げられる。藩は当時、財政赤字の真っ最中であり、徒刑制を維持するには莫大な手間と経費がかかるのであった。そのため1つ目の理由故に徒刑に要する経費は、余計な経費なのだということである。前述の寛政以降の絶対的犯罪者数増加が、それに拍車をかけたのかもしれない。
 白石は過去5年間の徒刑経費を費目ごとに算出して添付している。白石の調査によれば、年平均49人の徒刑囚を定小屋に収容し、その経費は18貫475匁餘であるという。白石はこの提言において、徒刑の代りに笞100の刑(鞭打ち100回)に処すこと、再犯・再々犯で死刑に相当する場合には雑戸刑を適用することを代替の刑罰として提言している。
 しかし、白石の提言に反対の者もあった。奉行本役の堀内坤次である。堀内は島田に対して、犯罪人は徒刑という刑罰をことのほか恐れているのに、これを廃して笞刑に代えたのでは安易に思ってしまうと主張する。つまり、刑罰の威嚇的効果の薄れることを懸念しているのである。堀内は、犯罪容疑の取調べと擬律案の作成とを担当する穿鑿所の頭当分・同本役を長年勤めており、この経験に基づく反対意見であろうと思われる。
 白石清兵衛の徒刑廃止提言をめぐって以上のような議論が見られ、その後、刑法方奉行所に回付され、刑法方の見解が求められたのである。刑法方は、この提一言が刑法全体にかかわる重要問題なので、さらに熟議をかさねるべきであるという態度を示し、その結果、下記のような見解に達したのである。
 すなわち、徒刑廃止問題は経費の面のみから議論すべきではなく、徒刑制度の趣旨が実現しているかどうかで議論すべきであるとした。従って、徒刑の効果を確認するため、過去5年間の釈放者について更生の効果があがっているか否かを講査した上で結論を出すべきであるというのである。島田は具体的数字を示して、社会復帰が10人に6人も実現していれば存続と決し、改心の様子の見えない者が10人中に7、8人も占めるならば廃止に決せよと提案した。島田の提案は採用となり、釈放者調査が実施され、その結果、文化2年(1805)正月、徒刑廃止の決定が下されることになったのである。なお、この時の釈放者動向調査の記録は、明らかになっていない。  

(3)徒刑再開後

 上記のように、廃止となっていた徒刑制だが、文化11年に、宝暦改革の先駆者の理念が再び重視されて復活することとなった。
 文政8年(1825)10月、熊本藩は再開後の徒刑が効果的に運用されているかを確認するため、釈放者の動向を調査した。その調査によると、徒刑を再開した文化11年から文政8年までの約11年間の間に、刑期が満了して釈放されたものは181人を数える。この当時、定小屋には東西の2部屋が存在し、西部屋には盗犯による徒刑囚を収容し、東小屋には盗犯以外の徒刑囚を収容していた。文政8年5月11日までに西部屋からは121人が釈放され、その内、生業に就いて更正している者が52人もの人数に達している。
 全ての犯罪の中で盗犯が占める割合が高いことは、古今東西変わらず、その盗犯者が再犯・三犯、ひいては累犯に及ぶ率が他の犯罪に比べて高いことも事実であり、熊本藩の徒刑囚にもこの傾向があてはまるようである。しかしながら、熊本藩の更生率の高さは非常に注目すべき点である。西小屋からの121人の釈放者中、半数の60人が更生に成功しているのである。病死の32人を除外して考えると、その更生率は60%に達し、盗犯以外の釈放者に至っては、約90%が更生している。再犯者は60人中わずかに11人である。釈放者全員の中から病死者を除くと153人となり、そのうちの121人が更生に成功した訳で、更生率は実に73%に達する。但し、全釈放者181人の中には、釈放後問もない者も含まれているので、更生が確実なものかどうか確かめられない場合もあると思われる。それ故、上記の更生率はいくらか差引いて考える必要があるが、それにしても、再開直後の徒刑は極めて良好な成績を収めていたようだ。  
 徒刑廃止の理由は、前述のように財政的問題と徒刑制度の実効性の問題とにあった。熊本藩はその実効性を確認するために過去5年間の釈放者の動向を調査したのであり、その結果を得て廃止に決したのであった。言い換えれば、廃止直前の頃の徒刑制度は、それを存続させるに足る実績が上がっていなかったということである。つまり、先に挙げた熊本藩処刑実数年平均推移の統計においても、徒刑中断前には処刑者が徒刑採用前以上に激増したことも、この徒刑の効果があまり上がってなかったことが推測される。
 しかし、再開後の徒刑は注目に値する好成績を収めているのである。これは、徒刑再開にあたって様々な改善策を施したためと推察されるが、分類拘禁の処遇法を採用したことが重要な役割を果たしたように思われる。徒刑再開後の定小屋には東小屋と西小屋とがあって、西小屋には盗犯による徒刑囚を収容し、東小屋にはそれ以外の徒刑囚を拘禁した。白石清兵衛の徒刑廃止提言でも、収容者の悪風感染の弊害について指摘しており、鳥田嘉津次もこの提言に賛意を示していることから考えると、徒刑中断以前の定小屋においては、盗犯の徒刑囚もそれ以外の犯罪による徒刑囚も同じ部屋に収容していたと推察されるのである。従って再開後、簡単ではあるが犯罪の種類による分類処遇を施し、それは重要な改善点であったと言える。  
 また、東西の小屋において庄屋制を採用して徒刑囚の中から人柄によって庄屋を選定して小屋内の統括者となし、徒刑囚の自治的統制をはかったことも、徒刑再開後の新しい試みかも知れない。さらに、徒刑囚に対して「心得条目」なるものを毎月読み渡した。つまり、収容者に対して積極的に教育を施したのである。この点も徒刑再開後の新しい処遇法であると考えられる。  
 それに対して、熊本藩では、逃走の徒刑囚については逮捕しだい刎首に処すことになっていた。その処刑は通常の死刑執行とは異なって、定小屋のある高麗門内の敷地において、徒刑囚に見せしめて執行する。熊本藩の徒刑制度は処遇がゆるやかであった反面、違反者には極めて厳格に処置したのである。
 つまり、再開後の徒刑制度は、処遇方を寛大に改善する一方で、より厳しい威嚇を加えることによって再犯防止を強化したと言える。

(4)熊本藩の理念の波及

 文化11年に、宝暦改革の先駆者の理念が再び重視されて復活し、以後、熊本藩は幕末における法制の整った刑事先進藩として知られ、とりわけ刑法草書は、江戸時代における諸藩の刑法典中の白眉として著名であった。さらに特筆すべきことは、江戸幕府崩壊後、明治政府は法制の面に秀でた熊本藩の関係者を刑法局に多数起用し、新体制の刑政を主導させ、逸速く「仮刑律」12編210条を編纂させた。つまり、熊本藩の理念は明治新政府へと受け継がれていったということである。
 熊本藩のこのような先進的な要素を含む徒刑制度は、天明3年(1783)12月、佐賀藩の徒罪制度を生み、寛政2年(1790)3月、会津藩における徒刑の制定となり、更に寛政2年2月、老中松平定信の創設した幕府の人足寄場にも、収容者を教化改善して社会復帰を目指すという熊本藩徒刑の精神と、そのための一連の処遇法が受け継がれることになったということである。その後、熊本藩徒刑と趣旨を同じくする刑罰が、幕府人足寄場の影響と相侯って全国の諸藩へ広まっていったとされる。しかし、日本における近代自由刑の源流は、現在のところ幕府の石川島人足寄場と見るのが通説であり、人足寄場を設置した松平定信が熊本藩徒刑場についてどの程度の知識を有し、影響を受けたのかは不明であり、人足寄場と熊本藩徒刑場の関係は明らかではない。

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