津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■永源師檀紀年録・巻之四(3)

2019-03-27 09:07:36 | 史料

天文廿三年
〇同年冬和泉守護屋敷等ノ寄附ニ依テ、青龍寺屋形(枢府の誤か)ノ老臣ヨリ下知ノ状授ク。
   建仁寺永源庵領下京北綾小路・西高倉・南五条坊門・東万里小路・四町町事、根本和泉守護雖為知行、
   先年對当庵寄進以来帯数通證文、当知行無紛候(之か)段分明候(之か)上者、地子致如在之可致其沙
   汰者也、仍折紙之状如件、十二月廿九日 当地百姓中 俊郷判・秀雄判(以下三通永禄末元亀頃の文書と思われる)
   建仁寺永源庵領下京北綾小路・西高倉・南五条坊門・東万里小路・四町町事、根本和泉守護雖為知行、
   先年寄進以来帯数通證文、当知行無紛候(之か)条、被存知之不可有競望候也、仍折紙之状如件
   十二月廿ク日 旧院下代中・好齊(齋か)下代中・村井民部少輔下代中 俊郷判・秀雄判
 此冬地子無滞寺納之旨ヲ屋形ヱ告ク、慶順ハ屋形ノ昵近ニアツテ、執奏スノ趣キ十二月廿九日ヲ以テ当庵ヱ
 告報ス
〇同廿四年屋形ヨリ一條屋敷寄附ニ依テ、再ヒ青龍寺屋形(枢府)ノ郎従ヨリ領地ヱ下知状ヲ与フ。        屋形細川藤孝
   建仁寺内永源庵領一條很(戻)橋西爪四町々、幷細川淡路屋敷分四町々、合八町々事、当知行無紛ノ旨
   證文之上者、急度可致其沙汰者也、仍折紙之状如件 正月廿日 当地百姓中 晴門判・頼隆判・貞遙判
永禄元年三月三日前右京兆殿ノ息元服シテ六郎殿ト称フ。此月大樹ハ営ヲ坂本ニ遷シ又朽木谷ヱ遷座ス、屋
 形及ヒ右京大夫殿供奉ス。同五月三日大樹ハ朽木ヨリ坂本ヱ遷ル、右京大夫殿及ヒ屋形供奉ス。又将軍山ニ
 遷座ス、同六月四日ヲ以テ如意岳ヱ移リ、同八日再ヒ将軍山ヱ復座ス、屋形及六角家等供奉ス。翌日諸将ト
 三好ト鋒ヲ交テ亀井家戦死ス。
〇同年八月廿三日三好方ノ諸将泉州ヲ巡見シテ一同平均ニ押領ス、是以テ屋形ノ領地及当庵領永ク貢物ヲ闕ク。
〇同二年四月三好ノハカライニテ右京大夫氏綱ヲ淀ヱ入城也。
〇同四年五月前右京兆剃髪シテ一清入道ト号ス、三好ト和睦シテ富田ノ普門寺ニ入ル、富田庄ヲ料所ト為ス。    細川晴元
〇同年一清入道殿ノ次男ハ六角家ノ實子ナレハ、六角ヨリ此ヲ取立ントシテ諸将ニ諜シテ大軍ヲ起シテ陣ヲ勝
 軍山ニ屯ス。ツイニ成ラスシテ帰国ス。
〇同六年三月朔一清入道殿普門寺ニ於テ卒ス、竜昇院殿心月一新大禅定門ト号ス。
〇同年十一月十三日屋形長男ヲ生ム、熊千代殿ト小字ス。此十二月廿日氏綱主卒ス。               熊千代細川忠興
〇同八年五月十九日三好・松永・岩成等俄ニ二條武衛陣ノ構ニ推参シテ戦フ、警衛ノ兵妨戦ス、大樹ハ自ラ放
 火シテ戦ヒ遂ニ薨ス。光源院殿融山道圓大居士ト号ス。屋形ハ青龍寺ニ在リ出シテ路地ニ於テ弑スト聞テ大    光源院足利義輝
 ニ哀嘆ス、大樹ノ舎弟一乗院ノ覚慶門主ハ院家ノ如ニシテ三好ヨリ警衛セシム、刑部大輔殿忍テ南部ニ赴キ、   覚慶➝ 足利義昭
 米田壹岐守求政宗堅入道ヲシテ三好ヲ押へサセ、窃ニ門主ヲ警護シテ春日山ニ入リ、此ノ八月ヲ以テ江州甲           刑部大輔➝細川藤孝
 賀ニ逃ル、門主暫ク此ニ滞留シテ髪ヲ長シテ義秋ト称ス、又義昭ト改ム。刑部大輔殿ヲモへラク、六角左京                         ここから表記が変わる
 大夫義秀ハ義昭公ノ甥ナレハ此ヲ憑マントテ義昭公ヲ奉シテ矢嶋邸ニ移リ、和田和泉守秀隆・米田宗堅入道
 等ヲカタライテ観音城ヲ頼ム、六角義秀愚闇ナル人ユヘ六角承禎ヨリ専ラ江南ノ治業ヲ行フ故ニ義秀ノ心ニ
 マカセス、松永ハ承禎ノ縁家ナレハ剰ヱ諸卒ヲ矢嶋ヱ発向セシム、刑部大輔殿初ヨリ義秀ノ愚闇ナレハ覚ツ
 カナク思ヒ、自ラ若州小濱ニ赴キ武田義頼ヲ頼ム、義頼ハ義統継嗣二シテ義秀ノ弟也、故ニ義昭公ノ甥也、
 武田領掌ス。
〇同年九月晦日武田家ヨリ義昭公ノ迎トシテ佐分利谷石山城主武藤上野介ヲ発ス、然モ若州蕞爾タル分内ナレ
 ハ大事ヲ成シ難シ、越前ノ朝倉義景ハ一時ノ豪雄ニシテ然モ兵士多シ、前将軍ヨリ恩顧ヲ蒙ナレハ、此ヲ頼
 マント欲シて刑部大輔殿得々トシテ敦賀金ヶ崎ニ赴キ、朝倉九郎左衛門景糺ヲ以テ説カシム、義景敬テ諾ス、
 刑部大輔殿急ニ若州ニ還テ武田ニ説ク、武田無貮心ヲ以テ奉スルカ故ニ大ニ怒ル、既ニ事ニ及ント欲ス。
 部大輔殿巧弁ヲ以テ謀リ諭ス、遂ニ義頼意解ケ三百五十余騎ヲ卒シテ送リ奉ツル。
〇同九年九月十九日ヲ以テ義昭公越前ニ赴ク、刑部大輔殿預メ所々ニ潜ミ居ル所ノ諸将ヲ招ク、此ハ向ニ室町    
 騒動ノ時キ重テ便ヲ待ント欲シテ私第ヨリ直ニ遁レシ諸将也、乃シ大舘治部大輔時忠・仁木伊賀守義正・上
 野中務大輔清信・飯川山城守信賢・一色式部少輔藤長等ヲ始トシテ六十余人馳聚ル、越前ヨリ朝倉式部少輔
 景鏡ヲ迎使トシテ五百余騎ヲ率テ発向セシム、景鏡ハ義景ノ甥ナリ、景鏡ハ若州左柿ニ来テ待ツ、義昭公翌
 廿日ヲ以テ金ケ崎城ニ入ル、直ニ一乗谷ヱ請シ奉ント欲シテ此事ヲ敦賀ノ家士ヱ告ルニ、積雪ノ常年ヨリ深
 シテ鉢伏木ノ目峠ヲ踰ル事能ワズシテ淹留也、此年刑部大輔殿次息ヲ生ム、頓五郎殿ト小字ス。         頓五郎→ 細川興元

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■沼田弥七郎統兼と沼田藤次

2019-03-27 07:09:25 | 歴史

 永源師檀紀年録・巻之四(2)にあるように、天文廿三年(1554)六月十六日、幽齋の養父・細川元常が亡くなっている。
その折り、永源庵に「和泉守護分・淡路分」として寺納しており、三件の宛行状が三淵藤英・一色藤長・沼田統兼の名前で発せられている。
その沼田統兼は、若狭国遠敷郡熊川城主沼田光兼の三男(?)で、細川幽齋(藤孝)室・麝香の兄にあたる。
入道「一之斎」の名前でも知られるが、宮津市の郷土史家・中嶋利雄氏の講演集「細川時代の宮津」によると、宮津市内の発掘現場から茶碗の底に「一之」と書かれた天目茶碗が発見された際、立ち会われたことが紹介されている。

 つい最近の事だが、三従兄弟(みいとこ)に当たるK家から所蔵の古文書のコピーを頂戴したが、その中に秀吉が発した沼田藤次宛の宛行状があり驚いてしまった。
沼田藤次とは細川家臣となった沼田氏の初代清延(幽齋室麝香の兄、統兼の弟)の嫡男、藤左衛門貞弘の事である。
父・光兼の領地である熊川の地はこの人が受け継いでいたことがわかる。大変貴重な資料であり驚いている。
未だ所有者の同意を得ていないので、写真やその内容についての公表は控えるが、藤次は「秀吉に仕え四百石」と系図に記されているが、その四百石が熊川の地であることが、この宛行状で確認できた。
秀吉没後の事か、藤次も細川家に仕えたようだが、慶長五年九月廿七日福知山攻めに際し討死している。
細川家臣沼田家の二代目は延元が継いでいるが、兄・藤次の死に伴うものであろう。。

 
 熊川城主   同   同
   光建ー光延ー光兼ー+ーー光長

            
            +ーー統兼 弥七郎・一之斎 
            |
                  +ーー藤次 藤左衛門貞弘
            |      |
            +ーー清延ーー+ーー延元ーー延之

            |       
            +ーー麝香
                ‖
              細川藤孝(幽齋)

熊川宿に就いては以前に少々触れたこともある。■熊川城主・沼田氏
K家と当家はいささかながら沼田家(門太家)の血を受け継いでいることもあって、興味ある記述や資料に同時期に遭遇して奇縁に感じている。

             

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