昭和21年発刊の、川田順著の「細川幽齋」を読んでいる。古本で7~8年ほど前に購入したものである。
終戦直後の本だから、藁半紙のような紙でページをめくるのも心もとないし、校正もままならなかったと見え、誤植がすさまじい。
本来は正誤表がつけられていたのだろうが、前の所有者の手により万年筆で修正されている。
何でこの本を開いたかというと、ここには幽齋公の葬儀の事が詳しく書かれている。他の資料では窺い知れず、それを思い出しての事である。
幽齋は慶長五年八月二十日、洛中の三条車屋町の館で亡くなったとされる。忠興の娘・万が嫁いでいる烏丸家が程近いのではなかろうか。
幽齋は自分の葬儀は豊前で行うよう遺言していたらしい。葬儀は九月十三日に執り行われているから、遺骸は舟にて急きょ運ばれたのであろう。その詳細が次の様にある。
大徳寺、南禪寺、天龍寺、建仁寺から導師七人、その他の僧百五十與人が招聘された。方八町の式場には垣を結び廻し、
垣内の北には靈柩を安置すべき龕前堂を建てた。堂は十二間四方の幕垣で圍み、幕の内部は尺地も餘さず敷物を敷きつ
め、四方に華表を立てた。堂の四隅の柱は青緞子で巻き、軒引の水には、紫空色の絹布を用ゐ、恰も紫雲の棚曳いたや
うだ。辰の一點、彦山の山伏五百人、法螺貝を吹き立て駈足で式場を通りぬけた。悪魔を拂ふためだらう。午の刻、霊
柩がついた。故人秘藏の月毛の駒が、全身白絹で包まれ、四人の舎人に曳かれて來る。次に弓、鑓、長刀、挟箱、袋太
刀等々。次に位牌は、當年八歳の孫(玄蕃頭興元の子)が侍の肩に乘りながら、持ってゐた。それから霊柩。これは五
色に彩り、箔にて磨き、金のかなものを用ゐ、玉の瓔珞を下げ、風鈴を掛けたから、日に輝き、風に和して、美妙の音
を立てた。そのうしろから喪主忠興、侍數百人を連れ、冠を被り、にぶ色の束帯、短き太刀を佩き、中啓を持ち、草履
穿きで從ふ。等々々。
壮大な葬儀の模様が詳しく書かれているが、これは葬儀の六日後に末松宗賢なる人物が認めたものだという。
群書類従所収だというが、そちらはまだ確認していない。他の資料には伺えない貴重な記録であり、ご紹介申し上げる。