津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■幽齋の葬儀

2019-12-07 15:35:15 | 歴史

 昭和21年発刊の、川田順著の「細川幽齋」を読んでいる。古本で7~8年ほど前に購入したものである。
終戦直後の本だから、藁半紙のような紙でページをめくるのも心もとないし、校正もままならなかったと見え、誤植がすさまじい。
本来は正誤表がつけられていたのだろうが、前の所有者の手により万年筆で修正されている。

何でこの本を開いたかというと、ここには幽齋公の葬儀の事が詳しく書かれている。他の資料では窺い知れず、それを思い出しての事である。
幽齋は慶長五年八月二十日、洛中の三条車屋町の館で亡くなったとされる。忠興の娘・万が嫁いでいる烏丸家が程近いのではなかろうか。
幽齋は自分の葬儀は豊前で行うよう遺言していたらしい。葬儀は九月十三日に執り行われているから、遺骸は舟にて急きょ運ばれたのであろう。その詳細が次の様にある。

         大徳寺、南禪寺、天龍寺、建仁寺から導師七人、その他の僧百五十與人が招聘された。方八町の式場には垣を結び廻し、
         垣内の北には靈柩を安置すべき龕前堂を建てた。堂は十二間四方の幕垣で圍み、幕の内部は尺地も餘さず敷物を敷きつ
         め、四方に華表を立てた。堂の四隅の柱は青緞子で巻き、軒引の水には、紫空色の絹布を用ゐ、恰も紫雲の棚曳いたや
         うだ。辰の一點、彦山の山伏五百人、法螺貝を吹き立て駈足で式場を通りぬけた。悪魔を拂ふためだらう。午の刻、霊
         柩がついた。故人秘藏の月毛の駒が、全身白絹で包まれ、四人の舎人に曳かれて來る。次に弓、鑓、長刀、挟箱、袋太
         刀等々。次に位牌は、當年八歳の孫(玄蕃頭興元の子)が侍の肩に乘りながら、持ってゐた。それから霊柩。これは五
         色に彩り、箔にて磨き、金のかなものを用ゐ、玉の瓔珞を下げ、風鈴を掛けたから、日に輝き、風に和して、美妙の音
         を立てた。そのうしろから喪主忠興、侍數百人を連れ、冠を被り、にぶ色の束帯、短き太刀を佩き、中啓を持ち、草履
         穿きで從ふ。等々々。

 壮大な葬儀の模様が詳しく書かれているが、これは葬儀の六日後に末松宗賢なる人物が認めたものだという。
群書類従所収だというが、そちらはまだ確認していない。他の資料には伺えない貴重な記録であり、ご紹介申し上げる。

 

 

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■細川小倉藩(93)寛永元年・万日帳(九月九・十日)

2019-12-07 06:10:21 | 細川小倉藩

                        (寛永元年九月)九・十日

         |                                      
         |     九日 両人詰 雨 夜ノ四時分ヨリふる、
         |
         |一、江戸への御飛脚被指上せ候事
大橋普請完工   |一、大橋御普請相済候て、人返候様ニと、被申付候事
風呂屋法度ニ而堪 |一、風ロ屋左兵衛登城ニ而、風呂入申候者御法度之由被仰候て、入者も入不申候故、何共かんにん成
忍成難シ     |                                          (巨細)
         |  不申候間、か様ニ御座候ハヽ、女之やうなる者御門出シ申度候間、可然様ニ被仰可被下候、古才
         |  之儀ハ書物上ケ申候間、御らん可被成候由之事
         |               椎田・築城郡)
暫時貸米ト蔵米ト |一、富田十太夫登城ニ而、御借米しい田ニ而請取候へ共、天気悪敷候て、舟廻り不申候間、御蔵ニ而
ノ引替ヲ乞ウ   |  御引かへ被下候ハヽ、右ノ米まわり次第ニ、御蔵へ入可申候間、如何御座可有候哉事
         |
筑前ヨリノ移民願 |一、人留ひとう新介登城ニ而、筑前ゟ助左衛門と申もの、当津ニ有付加申ためとて、せたい道具持参
         |  申候、女房ハ前かとゟ金山へ参候か、今ハ東小倉ノこんや町ニ親戚有之候、そこニ居申候、則新
         |                 (ママ)                    
         |  介同心候て、式ア殿・民ア殿へ参候へよし申渡事
国東宇佐郡ヘノ川 |一、国東・宇佐へ、川成・風損なとの検使ニ、物頭之内六人可指出とて、惣談ニ而之書立、式ア殿・
成風損ノ検使書立 |  民ア殿へ可申之由ニ候事
霜害田ヘノ加損米 |一、田川郡・下毛郡霜相田ノ儀、去冬秋長谷部文左衛門・福田善右衛門得 御諚候ヘハ、御加損米可
         |  被下由、被 仰出之由候て、田川へハ両人書状遣候、下毛ヘハ口上にて申渡候通ニ候、然共 御
御印ナキ故算用通 |  印無之候ニ付、于今埒明不申候、御郡々算用通不申ニ付、御郡奉行衆数度理被申候、左候ハヽ、
ラズ       |  文左衛門大坂ゟ罷下次第、 せんさく可仕候条、 先右之霜相田之所をハ指捨候て、算用被通候へ
         |   (深野)(財津)  
算用奉行     |  と、新介・久七へ被申渡候を、今日又惣談候へ共、弥右之通ニ候事
口入金ノ代米   |一、中津郡帆柱儀左衛門口入きんノ代米、借付之儀ニ付、御郡々算用不罷成故、惣談御郡奉行衆書物
         |  ニ、御奉行衆ゟ先去年文之御算用通候へと、肩書をにて新介・久七へ被申渡候事
         |
                        〃

         |                                      
         |     十日 両人詰 晴天
         |                                 (ママ)
         |一、熊谷平左衛門、豊後ゟ昨日罷帰之由候て、登城候、彼地少も相替儀無御座被申候事、
         |              鮎玉おもり
あゆ玉      |一、上林甚介登城にて、明日ゟあゆ玉いさせ申候まゝ、御奉行被仰付可被下候、先百斤仕候ハヽ、し
         |                     も
         |  れ可申候間、其以後ハ御奉行不被付ケ候て不苦之由、則田辺作介を奉行ニ被申付候事
塀ノ控柱北前ニテ |一、北前へ、田辺作介を被遣候ハヽ、塀之ひかへ柱之儀被仰付可被下之由、河田八右衛門被申候、銀
調達       |          (仁保慰英)
         |  子持せ可被遣哉と、仁太兵衛ニ尋候ヘハ、百め弐百め之間ハ可有之由被申候由、八右衛門被申候
         |  事、
田川郡霜害田   |一、田川郡霜害之儀、御免被成候通、長谷部文左衛門・福田善右衛門奉弐而、御郡奉行■■へあて遣候
         |  状、田猪兵衛持参申、則、田川へ可遣之由ニ候事、
         |   (国東)
両子山護符ヲ上グ |一、東国郡両子山そうしゆ院登城ニ而、いつも今月ニ御礼上ケ申ニ付、持参被申候事、
         |         (米田是友)
         |一、御奉行衆三人・甚左衛門、式ア殿へ談合ニ被参候事、
         |                     (元明)
朝鮮信使粮米   |一、高麗之官人罷渡候ニ、 被遣白米之儀、住江甚兵衛ニ被申付、早々うたせられ候へと、被申渡候
         |  事、
国東宇佐郡川成風 |一、式ア殿にてノ談合、国東・宇佐郡川成・風損御検使ニ被出候、又諸御郡へ御貸米奉行ニ被遣候衆
損ノ検使     |  相究候事
諸郡ヘノ貸米奉行 |
ノ選任      |
         |                   七石         (ママ)
切米減石いやナラ |一、松村源六兵衛切米七石、中嶋與左衛門〇加来喜兵衛五石・一、牧市左衛門七石ニ而御奉公可仕
バ暇ヲ遣ス    |  と候ハヽ、其まゝ可被召置候、若御切米へり候てハいやと申候ハヽ、御暇可被遣通、松本彦市・
         |  米田甚左衛門使ニ而、被申渡候事
橋奉行扶持ヲ放サ |一、橋奉行うすき角左衛門、御扶持被放候通、被申渡候事、今壱人ハ不罷出候故、未申渡候、かには
ル   蟹喰門番 |  ミ御門番も未罷出候故、不申渡候事
         |       (正成)
朝鮮信使ヘノ使者 |一、官人ヘノ御使薮図・下村権佐両人可被遣由候事
         |

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