津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(91)寛永元年・万日帳(九月七日)

2019-12-05 18:16:50 | 細川小倉藩

 12月1日~5日にかけての、寛永元年九月の万日録(九月七日~十二日)につきましては、(八月七日~十二日)を間違ってアンプしておりました。
誠に申し訳なくこれらを削除して、新たに(九月七日・91)から再開いたします。


                        (寛永元年九月)七日

         |                                      
         |     七 両人詰 晴天
         |
         |一、しろかねや加右衛門登城、昨日申上候銀子之事、勘五郎ニ申候て、銀子取返候由申候事、
貸米奉行     |一、岩崎太郎兵衛登城候ニ、御貸米奉行申付可遣候条、早々御郡へ被参候へと、被申渡候事、
三斎返書ノ取扱方 |一、江戸ゟ 三斎様へ被成 進上候 御書之御返答、 式ア殿へ参候、如何様之 御書ニ而候も不存
         |             (ママ)       衆二 
         |  候間、態飛脚御上せ候哉、但、御供替り之時、御上せ被成候哉、談合ニ勘兵衛御こし候、御奉行
         |                     〃
         |  衆被申候は、如何様之御書ニ而候もしれ不申候間、態小早御上せ候て可然候由、返事被申候事、
         |  但、御分別次第之由ニ候事
豊後横目交替ノ報 |一、ふん後御横目御替り御下候由申候て、杉山藤兵衛・宇野七右衛門方へ被遣候状返事、次飛脚ニ而
         |  巳刻ニ参着申候事
         |                         参考:秀忠大御所期の豊後府内目付について
         |
藤崎言斎明屋敷ヲ |一、藤崎喜八郎登城ニ而、同言斎家之儀、家奉行衆へ相渡シ可申由被申候、則大津留六左衛門へ被申
家奉行ニ渡ス   |  渡候事
         |        
取過シノ銀ト造作 |一、町三右衛門城ニ而、前かと取すこしノ銀御座候ニ、今度御供替りニ参候ざうさ銀ニ而、加元利引
銀トノ差引    |  可申由申候、利之儀ハかゝり申間敷由申候へ共、利さかいすき候間。かけ可申由ニ候事、右之銀
         |  利之事、前かとニ御届無之候事不存候、 御印頂戴仕置候へは、か様之銀ニ利ノ立候事無御座候
         |  事
         |
漆ノ実採集    |一、渡長右衛門・いさ山善右衛門両人うるしノミ取ニ、弥明日参候へと、被申付候事
諸奉行決済ノ差出 |一、諸奉行仕候衆、めん/\なに/\をさまり仕候とさし出を被仕功労へと、被申渡候事
         | 

 

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■御侍帳・家紋から考える(16)

2019-12-05 13:59:44 | 家紋

   二ヶ月弱お休みをした「家紋」を取り上げます。長い空白を生じお詫びいたします。今回は16回目となります。


                       

・岡田仙太郎は「岡田省三家(南東55-11)」の5代目・千太郎(七郎右衛門)御前様御附・御裏方支配頭之支配 御前様御附 百石だと思われる
 家紋はこれが本来のものか、印刷ミスか測りがたいが、同じく家紋が紹介されている「肥陽諸士鑑」には省三家の存在そのものがが見受けられない。
 「茶の実紋」もしくはその変形である。
・岡 陳五左衛門は「岡 孫一家(南東15-17)」の6代目・辰之助(彦兵衛・陳五左衛門)御鉄炮二十挺頭 有吉組 四百石)である。
 家紋は「丸に剣柏紋」である。
・岡 弥十郎は「岡 弥十郎家(南東15-2)」の8代目か、時代が下るように思えるが同名人物は8代目のみである。御番方・遠坂関内組 二百石
 家紋は二つ、「蛇の目紋」並びに「隅切り平角に五つ丸」
・岡 小平太は「岡 兵三家(南東15-4)」の6代目・小平太(貞之允)御番方・松下清蔵組 二百石である。
 家紋は二つ、「隅立て角に両引」「隅立て角に三つ両引」である。
・岡 半右衛門は「岡 助次家(南東15-1)」の7代目・慶吉(半右衛門)である。
 家紋は「隅立て角に四つ丸」「平角に四つ石紋」
・岡 源之進は「岡 眞人家(南東15-3)」の6代目か(8代目にも同名の人物在り)
 家紋は「?」と「岡 孫一家」と同様の「丸に剣柏紋」である。祖を一にする同族である。
・越生秀助は「越生 猛家(南東15-18)」の7代目・佐敷御番二百石である。越生の読みは「おごせ」であろうか?
 家紋は「子持ち六角紋」
・興津栄喜は「興津宗也家(南東13-15)」の9代目である。養子であり八代御城附八代尾版頭組二百石。
 初代は忠興公に殉死した興津弥五右衛門で、森鴎外の小説「興津弥五右衛門の遺書」で勇名である。
 家紋の一つ目は名前がよくわからない。興津一族の紋として「剣紋」があるが、「三つ剣」の変形か?
 今一つは丸の中に同上の形が三つ配されているが、表示が小さく判読しがたい。
 本妙寺にある同家の墓石には「細川九曜紋」が刻まれている???
・荻 吉九郎は「荻 吉九郎家(南東55-1)」の7代目(250石)である。
 家紋は「左巴紋」及び「隅切り立角に・・・」

・岡松丈英は御医師「岡松駿甫家(南東57-12 医)」の4代目・文英か?、丈英と名乗ったのかもしれないし、誤植の可能性も否定できない。
 家紋は「丸に武田菱紋」である。
・緒方五左衛門は「緒方嘉十郎家(南東14-12)」の6代目・大太郎(五左衛門)である。
 家紋は「蛇の目紋」である。
・緒方新右衛門は「緒方助十郎家(南東14-14)」の5代目・新右衛門、新左衛門とも名乗ったらしい。天保四年から十年にかけ各地の郡代を勤めた。
 家紋は「隅切り平角に杏葉紋」家紋からすると臼杵氏系の緒方氏か?
・緒方藤蔵は「緒方藤三郎家(南東14-15)」の4代目である。
 家紋は「丸に六つ丁子紋」である。
・緒方平兵衛は「緒方喜一郎家(南東14-13)」の5代目・万助(平兵衛)である。
 家紋は「丸に頭合わせ三つ蔦」か、不明
・尾本胃之允については「細川家家臣略歴にはその名前が登場しない。「肥陽諸士鑑」に尾元勘右衛門300石とあるが、関係者か?
 家紋は「竪木瓜」
・尾崎十次郎は「尾崎十次郎家(南東13-18)」の人物で最後の当主の名前であるが時代が合わない。5代・藤一あたりではないかと推測する。
 家紋は「隅切り角に加賀梅鉢」?
・渡辺道柳は御医師の「渡邊柳園家(南東57-14 医)」の3代目・源之進(金右衛門・道柳)である。
 家紋は「隅立て角に平角地紋・一つ雁金」?
・和田金右衛門は「和田平也家(南東11-28)」の2代、新陰流の剣術師範である。

 家紋は「隅切り平角に八つ薺」? 

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■住所録

2019-12-05 11:33:01 | 徒然

 年末に入ると喪中のハガキが送られてきて少々気がめいってしまう。
間違がわないようにと住所録に✔を入れる作業をしながら、また住所一覧表の数が増えたな~と驚いている。
この歳になって何故?と思うのだが、これは私の歴史狂いからきていることは間違いない。ご厚誼が広がり有難いことではある。
3・4割の方は御目にかかったこともない。しかし年の初めのごあいさつで、お互いの健康とご家族のご多幸を確認している。
虚礼廃止が叫ばれて随分長いように思うが、年賀状のやり取りはそう簡単には止まぬであろう。

しかし今頃の季節は大いに悩ましい。さてどんな賀状を作ろうかと思い悩むのである。
毎年の事だが、タイムアウト近くになってあわてて決めるから、いつも満足するに至る者とはなっていない。

そろそろ郵便局に出向き、ハガキだけでも購入しなければと考えている。皆様は如何ですか・・・


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