津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■私感・細川綱利

2019-12-14 16:30:04 | 歴史

 綱利公の業績は功罪相半ばしている。
幼くして父・光尚公と死別、藩の存続が危ぶまれた中、家臣の必死の努力を以て無事に54万石大藩の遺領を相続した。
光尚公の死去前に祖父・忠利公が亡くなり、死去後には曾祖父・三齋(忠興公)が亡くなって居り、大いに羽を伸ばして成長されたのであろう。
長ずるに及んでその生活ぶりに対して忠臣・松井興長や田中左兵衛等の諫言も受けている。生母・清高院の浪費ぶりは目に余るものがあったらしく、松井興長の諫言は痛烈を極めた。
江戸に於ける近習が出頭して、家中の政へと進出してくる。これらの人々が幕末まで家中の中枢に位置している。

 今日は赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした日である。才気闊達な綱利(59歳)は、大石内蔵助以下17名の赤穂浪士を預り大いに歓待している。
接待役の堀内伝右衛門も、その記録を残して後世に名を遺した。まさに爛熟の元禄の時代にベストマッチした人物のように思える。
夫人は水戸中納言頼房の息女であり、水戸光圀、兄の松平頼重は義兄にあたる。
そんな徳川一門に連なった綱利だが、あの柳沢吉保にすり寄っている様はなんともいただけない。
夜な夜な柳沢家に伺候して「夜中越中」のあだ名がついた。嫡男を亡くし、その婚約者は二男・吉利と結婚するはずであったが、是も18歳で死去した(綱利64歳)。
順風満帆の綱利が味わう初めての挫折感であったろう。綱利は柳沢吉保の三男を養子に迎えようと企てるが、時の幕閣に反対されて再びの挫折を味わうことになる。
弟・利重をして新田藩を立藩させているが、その二男・宜紀を宝永五年(66歳)正月に養子に決めるまでには若干のタイムログが見え、綱利の心の揺らぎが見て取れる。
愛してやまなかった生母・清高院が老年となり病がちになると、看病の為と称して帰国しないことが度々起こった。
そんな清高院は宝永七年、92歳で死去すると、綱利は見事なお墓を建立している。
尾張藩士・朝日重章が書いた「鸚鵡籠中記」には、そんな綱利に対し、帰国すれば家中で「押籠め」の噂があったと伝えている。
「肥後先哲遺蹟」では綱利により出頭した人物の一人である家老の木村半平が、綱利に対し強く隠居を薦め、三日ほど江戸藩邸の詰間に詰めたと記している(木村秋山項)。
宜紀を養子にしたものの、家督を譲ることをしなかった綱利も、ついに正徳二年(69歳)隠居することになる。
そして二年後江戸藩邸に於いて俄に発病し、死去した。

赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日、再び細川家の処置に対する賞賛のコメントがみえる。綱利の面目躍如たる一日である。

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■季節外れのスミレ

2019-12-14 12:58:38 | 色・いろいろ

                                   

                     鉢に種をまき育てたスミレが季節外れの花を付けました。
                     キキョウのような色をしていますが、本物は紫がかっていますけど・・・

 先日購入した青い目の俳人・マブソン青眼の著書「一茶とワイン」に パリ―にて星の匂いか花すみれ とあったが、これはパンジーか何かだろう。
日本のスミレは小さくて本当に可愛い。

 

 

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■原文に触れる「阿部茶事談」(06)

2019-12-14 09:39:46 | 史料

                                   

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■細川小倉藩(100)寛永元年・万日帳(九月廿五・廿六日)

2019-12-14 09:37:48 | 細川小倉藩

                        (寛永元年九月)廿五・廿六日

         |              
              廿五日 雨 甚左衛門
         |
女敵討一件糺明  |一、田川ノ助兵衛、今日きうめい仕、口おきゝ候へと、瀬崎猪右衛門・くほ田與介両人へ被申渡候
         |  事、
三斎重陽ノ小袖ヲ |一、寺本八左衛門、中津ゟ御小袖上ケ罷帰候、一段御きけん能御座候、今程ハ一ゑん何用儀も不被
納ム       |           土方雄氏
         |  成御聞候、江戸ゟ、ひち方たん後殿ゟ御使者御座候へ共、御奉行衆得心ニ而御返事申候ほとの儀
         |  ニ而候由被申候、右之御ふく廿四日之四つ過ニ上り申候事、御返書ハ無御座候事、
         |  相島、筑前粕屋郡)                  (対)
朝鮮信使ノ動静  |一、あひノ嶋ニ官人参候ニ、付置候御舟頭罷戻り登城仕候、津嶋殿ゟ上り申候使者ニあい申候か、官
         |                                 宗義成
         |    (釜山海)                                      宰相毛利秀元)(毛利秀就
         |  人ハふさんかいまて参候、爰元ヘハ十四五日過候て、上り申候由申候事、さいせう殿・長門殿ゟ
         |                                 〃
信使ノ員数    |  小早津嶋ニ御付置候、其舟も上り申候、其御奉行ニ相尋候ヘハ、官人頭四人、下々四百人ほと参
         |  候由申候事
         |               加来          (加室、周防大島郡)
         |一、上方へ上せ申候小早ノ御舟頭角久二郎罷被下候、かふろニ而御鉄炮衆七人、松岡久左衛門者壱人
         |  のせ下申候事       〃
たう       |一、上方ゟ下候たう伊藤文五郎へ被相渡候事
         |
         |一、福田善右衛門へ之 御書、吉介へ御渡被下候へと、永良権八登城被仕候ニ被伝申候、然右衛門御
         |  郡へ被参候ニ付、
         |    馬寄
川獺ヲ返ス    |一、当郡まいそ村ゟ川うそ上ケ申候へ共、今程ハ御用ニ無之、取主へ返シ被申候、何方ニ而もうり候
         |  へとの事ニ候
         |        ゆわき       今日
         |一、御小早ノ舟頭湯 久内と申者、病死仕候事
         |              (筑前粕屋郡)
         |一、小今井長左衛門と申御舟頭、相之嶋へ官人参候ニ付置、今日出舟仕之由ニ候事、
         |一、佐藤半介登城、大坂を当月十八日ニ立、夜前罷下候、残衆十九日ニ出舟仕由ニ候事、
女敵討糺明    |(追記)
水責ニ落チズ   |「一、田川郡助兵衛水せめ被申付候へ共、少も落不申候、書物仕候事」
         |

         |              
              廿六日 雨風 甚左衛門・助二郎詰 助二郎、昨夕中津ゟ罷帰候
         |                        (案)
玄功寺一件    |一、式ア殿登城、江戸へ玄功寺之儀ニ付、言上之状之安帋、御奉行衆へ御見せ候事、
         |               (細川立孝)(烏丸光賢室、三斎女)
中津人返シ    |一、同人今度中津人戻之儀ニ付、 御坊様・御まん様御知行分ハうふすな返シ可仕旨、御諚ニ候間、
         |  此方にてハせんさく難成候間、在々ゟ指出を被仰付可給之通、中津御奉行衆へ、式ア殿・民ア殿
         |  可被仰之由ニ候事、
         |     
小笠原長元    |一、民ア殿〇真玉少兵衛使ニ参候、自分之儀ハ知行余米無之ニ付、口明不申候故、毎月賄米渡被下候
         |                      (明脱)
馬乗分知行千五十 |  馬乗之分之知行千五十石ニて候、此分ノ知行口候様ニと小左衛門まて被仰候、小左衛門申候ハ、石        |  民ア殿其外切米取ノ分ハ賄米渡り申候目録御座候、馬乗ノ分ハ目録ニ無御座候、左候時ハ、兵粮

         |  無之候てハ不成儀ニ候間、千五十石之分知行之口明加申義ニ可有之哉と申、御奉行衆ハ五千石之
         |  御貸米、民ア殿一判之借状にて御かり候、左候時ハ、五千石之諸運上不足有之儀候間、馬乗之分
         |  と候て、各別ニ口明申事ハいかゝ可有之哉と候て、埒明不申、少兵衛も罷帰候事、
         |

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■「阿部茶事談」(04)釈文

2019-12-14 07:03:36 | 細川家譜

04                鈞命ニ依而忠利公光尚公騎士歩卒二万
       八千五百人を卒し一揆為征伐原ノ城ニ至り
       為ふ 上使松平信綱 戸田氏鉄と心を合せ
       城を攻るの謀略を為し給ふ 本ゟ忠利公
       ハ古今獨歩の良将ニ而敵の動静を策
       し為ひ其言葉府節を合せしめけれ
       ハ信綱氏鉄其外攻手の諸将其謀を承り
       伏せすと云殊なし 諸将の陣営は為一揆
       逢夜討殊数多有と云共忠利公の御陣所
       ハ大手にて甚城ニ近けれとも其備厳重
       尓して懈怠なけ連ハ夜討することも思ひも
       よらす其猛威に恐連落城近きに至らん事を
       嘆きける処尓寛永十五年二月廿七日鍋嶋氏
       上使の下知を背き出丸を攻抜是を見るより
       諸軍一同ニ惣攻有り 忠利公の士益田氏一番
       尓乗入其外河喜多山田津川池永都甲
       後藤抔云騎士歩卒續て攻入一揆も今日を
       限りと防戦す 敵味方の矢石甚烈し共其戦
       急成けれハ討死手負多しと云共是を顧ス
       乗越/\進ける尓本丸尓て一揆の大将大矢
       野四郎時貞を陳佐左衛門討取也 岡本安右衛門
       火を放して城を焼同廿は知日原ノ城落居して

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