綱利公の業績は功罪相半ばしている。
幼くして父・光尚公と死別、藩の存続が危ぶまれた中、家臣の必死の努力を以て無事に54万石大藩の遺領を相続した。
光尚公の死去前に祖父・忠利公が亡くなり、死去後には曾祖父・三齋(忠興公)が亡くなって居り、大いに羽を伸ばして成長されたのであろう。
長ずるに及んでその生活ぶりに対して忠臣・松井興長や田中左兵衛等の諫言も受けている。生母・清高院の浪費ぶりは目に余るものがあったらしく、松井興長の諫言は痛烈を極めた。
江戸に於ける近習が出頭して、家中の政へと進出してくる。これらの人々が幕末まで家中の中枢に位置している。
今日は赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした日である。才気闊達な綱利(59歳)は、大石内蔵助以下17名の赤穂浪士を預り大いに歓待している。
接待役の堀内伝右衛門も、その記録を残して後世に名を遺した。まさに爛熟の元禄の時代にベストマッチした人物のように思える。
夫人は水戸中納言頼房の息女であり、水戸光圀、兄の松平頼重は義兄にあたる。
そんな徳川一門に連なった綱利だが、あの柳沢吉保にすり寄っている様はなんともいただけない。
夜な夜な柳沢家に伺候して「夜中越中」のあだ名がついた。嫡男を亡くし、その婚約者は二男・吉利と結婚するはずであったが、是も18歳で死去した(綱利64歳)。
順風満帆の綱利が味わう初めての挫折感であったろう。綱利は柳沢吉保の三男を養子に迎えようと企てるが、時の幕閣に反対されて再びの挫折を味わうことになる。
弟・利重をして新田藩を立藩させているが、その二男・宜紀を宝永五年(66歳)正月に養子に決めるまでには若干のタイムログが見え、綱利の心の揺らぎが見て取れる。
愛してやまなかった生母・清高院が老年となり病がちになると、看病の為と称して帰国しないことが度々起こった。
そんな清高院は宝永七年、92歳で死去すると、綱利は見事なお墓を建立している。
尾張藩士・朝日重章が書いた「鸚鵡籠中記」には、そんな綱利に対し、帰国すれば家中で「押籠め」の噂があったと伝えている。
「肥後先哲遺蹟」では綱利により出頭した人物の一人である家老の木村半平が、綱利に対し強く隠居を薦め、三日ほど江戸藩邸の詰間に詰めたと記している(木村秋山項)。
宜紀を養子にしたものの、家督を譲ることをしなかった綱利も、ついに正徳二年(69歳)隠居することになる。
そして二年後江戸藩邸に於いて俄に発病し、死去した。
赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日、再び細川家の処置に対する賞賛のコメントがみえる。綱利の面目躍如たる一日である。