津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■薬喰い

2019-12-12 17:49:08 | 徒然

 死語みたいな言葉の中に、「薬喰い」という言葉がある。
いわゆる獣の肉を喰らうということだが、これを「薬」と称して食べたことによる。
東北の飢饉のときなどは、馬・牛などの家畜は言うに及ばず、今日「ジビエ」とよばれる獣の肉を食し尽したという記録が残る。
近世の熊本でも飢饉は何度も経験しているが、当然獣肉を食したと思われるが、まだそういう記録を見たことはない。
「薬喰い」という言葉がいつの頃から存在するのかはしらないが、生活の中に「薬」だと言い訳をしながらでも獣肉を食う習慣があったことを示している。
                  ももんじ屋 - Wikipedia

 私が現役の頃、仕事でお世話になっていたDrが、打合せが長引き夕刻にいたると「ちょっと飲みに出ましょう」と仰る。
少々風邪気味で一度はお断りしたのだが、「薬喰いすれば直ります」といわれてお供することになった。
残念ながらその当時は「薬喰い」という言葉を知らずに、なにか聞き間違えたのではと思いながらお供をした。
行った先は、すき焼き屋さんである。そこで「薬喰い」の言葉の蘊蓄をお聞きした。
その後下手な狂句を作ったが、寒くなってすき焼きを食べる機会があるとこの句を思い出すのである。

               風邪の如きはすぐ直りますョと 薬喰い  津々

 

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■細川小倉藩(98)寛永元年・万日帳(九月十九・廿日・廿一日)

2019-12-12 08:28:19 | 細川家譜

                        (寛永元年九月)十九・廿・廿一日

         |                                      
         |     十九日 両人詰 晴天
         |
         |一、大手の御門番八田徳右衛門、夜前病死仕候事、
         |  (国東郡)                                               可 由、弥五・八右被申渡候事
作事惣奉行姫島ノ |一、ひめ嶋へ竹切十人、御鉄炮衆申付遣被申候事、
竹切ヲ命ズ    |                  〃〃〃〃
走跡ノ田畠ノ高ノ |一、国東郡岐部村御百性走り申候由、塩木又丞登城ニて、被申上候、走跡ノ田畠之高ヲ、御代官・御
書上       |  惣庄や書上ケ申候、
中津ノ人返シ   |一、上毛・築城御郡代吉田茂左衛門方へ、中津人返シノ儀ニ、御鉄炮衆二人遣被申候、飛脚今日午下
         |  刻ニ罷帰候事、
         |一、中津人返シニ付、中村茂介所へ遣候飛脚、佐分利兵大夫与宗村與三兵衛、午ノ下刻ニ罷帰候事
         |

         |            (晴)                                      
         |     廿日 両人詰 清天
         |
武具入質ノ上物  |一、吉田少右衛門登城ニ而、村山伝内具足・くら道具、ひせんや七郎右衛門所ニしちニ置申候ヲ、上
闕所奉行請取ル  |  物ニ成申候ニ付、もくろく被仕、持参被申候事、則、大津留六左衛門ニ請取候へと、被申付候
         |  事
追放ノ風呂屋ノ道 |一、今度はらい申風ロ屋家・同ふろ道具ね段被成候ハヽ、かい申度と申者御座候、ねたん御究候て可
具評価ノ為ノ目録 |  被下之由被申、ふろ・同道具・たゝミなとノもくろく持参被申候事
         |  (槇島昭重)      (長相)
明家ノ貸借    |一、牧野嶋玄蕃殿、津田三十郎殿ニかし可申之由、大津留六左衛門被虫渡候、但、書院なとすゝけ候
         |  ハぬやうニと被申候ヘハ、猿木五郎八被居候処を御かし可申之由、三十郎殿使申候事、
         |                     (寒田  (牧)
四白鹿毛ヲ寒田ノ |一、坂井忠三郎・中村八右衛門登城、四白かけ沢田馬城山へ入申之由候、又同所ノ駄馬壱疋死申候
牧ニ放ス     |                    (築城郡)
厩ノ要      |  由、御中間見候て罷帰之由候、馬屋を被仰付可然之由候、可申付由候事
赤銅購入     |一、はふや忠兵衛、中国へあかかねかいニ可参候間、御奉行一人被仰付可被下之由、冣前ゟ銭屋共堅
銭屋誓紙     |  誓帋仕候、其上先様ニ而、小倉ゟ之横目・奉行なとゝ候ヘハ、如何ニ候間、付被申間敷候事、
女敵討入牢    |一、田川郡河崎村ノ助兵衛、めがたき候て、人をきり申候故、召寄、籠者被申付候事、
舟難破シ供替ノ家 |一、今度御供替被上候舟之内、弐そう破損仕候、志水牛介・林加兵衛、歩之御小姓衆弐十壱人、御鉄
中多数水死ス   |                  (景広)  
詰衆惣連判ノ書状 |  炮衆四人、其外下々相果候由、村上八郎左衛門者大坂ゟ罷下候、御詰衆惣連判ニ而書状下候、十
転覆       |  七日之四つ時、舟かへり申候由候、十八日之日付状にて候、則式ア殿へ夜ル之九つ過ニ被集候
         |               (是次)
談合       |  て、談合ニ候、牛介舟ニハ米田左兵衛・神谷半七被乗候、左兵衛・半七ハ身斗やう/\別の舟へ
         |  乗候てたすかり被申候、左候て、舟ハ弐艘共ニ見え不申候由候間、舟尋旁々御早舟壱艘・小早弐
         |       (岡田) (橋本)  (三宅)
         |  艘、御船頭茂兵衛・勘左衛門・清兵衛三人上せ可申由ニ候事
         |

    多くの犠牲者を出した今回の水難事件については、その後も多くの記載がある。
    2008-02-09にそれらの記事をまとめて 
志水宗加殿散財 を書いていた。深刻な事故であったことが判る。

         |                                      
         |     廿一日 両人詰 晴天
         |   家室
         | 加室・周防大島郡(帆)                                                                                                   ( ママ )                
捜索ニ出船ノ命  |一、かむろへ九端帆凡ノ御舟・小早弐そう、合三艘、御船頭勘左衛門・も兵衛    御奉行ニ友田次
         |  郎兵衛被指上せ候間、今日七つ時分ニ出船候へと、被申付候事
         |                     番ノ御使ハ
江戸ヨリ飛脚   |一、江戸ゟ御鉄炮衆三人御飛脚二被指下候、一〇大畠作左衛門ハ、八月廿九日に江戸を罷出候、大坂
ソノ旅程     |  ゟ舟便無之候て、今日一度ニ罷下候、弐人ハ当月四日に江戸を罷出候、弐人共ニ 三斎様へ御見
         |  廻ノ御飛脚ニ而候、則 御書持、中津へ参候、御返書候ハヽ、別ノ者ニ持せ上ケ候へとの儀ニ御
         |  座候事、其外御書参候、甚左衛門・助二郎へも八月廿九日之御書被成下候、佐分利作左衛門組之
         |    〃
         |  大畠作左衛門持参候事、
         |


 

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■「阿部茶事談」(03)釈文

2019-12-12 06:14:38 | 史料

03                 御諚曰我聞卿か父三斎屢竭忠節
       於 大神君且卿尽心于我子藩西
       城我思父子之勤労不忘 是故授肥後
       国忠利公稽首拝謝し退給ふ 重而嫡
       子六丸君と倶ニ御登城有奉謝懇 大
       国帰国之暇を告給ふ 其時又将軍家
       直ニ賜フ所有大坂石炮大筒幷玉薬且所
       帯之正宗之脇差 手授釣命曰 卿与嶋
       津氏有通家々好 雖然方ニ今登庸す
       る時ハ則居何処失疑宇 忠利公拝伏して
       謝賜ふ懇意余り有 則江府を發十一月小
       倉尓到り給ふ 於爰 有吉頼母米田監物小
       笠原備前志水伯耆を以て肥後熊本八
       代の両城を令受取 長岡佐渡興長を豊
                   
       前に残し小笠原右京太輔忠直ニ引渡
       し同十二月九日肥後熊本之城ニ有御着
       座而諸士ニ加恩之授地国政執行給ふ 四
       民蒙御恩沢御仁政難有事を悦ひ
       万歳をそ祝しける 同十四年の冬肥後
       の一嶋天草郡寺沢忠高領地肥前有
       馬松倉勝家之領内百姓黨を結び耶
       蘇の邪法に帰服す 依之西国甚忩動ス

 

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