津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■原文に触れる「阿部茶事談」(10)

2019-12-24 17:21:33 | 史料

                                

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■細川小倉藩(108)寛永元年・万日帳(十月廿一・廿ニ日)

2019-12-24 10:23:18 | 細川家譜

                        (寛永元年十月)廿一・廿ニ日

         |                  (曇か)                  
              廿一日 両人詰 曇 時雨 雲天 あられふる、 
         |  (津川辰珍)
片山示庵跡式   |一、津四郎右衛門殿登城、片山示庵彼相果候儀、便次第ニ御奉行衆被申上可然候、京ゟ申上候へ共、
         |  御奉行衆も被申上可然候、四郎右殿ゟ可被申上候へ共、冣前小倉にて煩候時、示庵所へ御使ニ
         |  参、知行をハ二人ノ子ニ百五十石と弐百五十石と可被下候間、心安存候へと、被 仰出、其使仕
         |  候間、四郎右殿ゟ申上候儀いかゝニ候間、言上不申由申候、御奉行衆可申上之由候事、
屋敷交換伺    |一、佐分利作左衛門登城、主孫ノ屋敷と八木田介久助と屋敷替仕度之由候、江戸へ被得 御諚嘉申候
         |                     〃
         |                 (西郡清忠)                       
         |  哉、御下向之上にて可被申上哉と、刑ア被申候ヘハ、御帰国之上ニ而可得 御諚之通ニ候、其間
         |  ハ内儀ニ而かへ相候てハいかゝ可有之哉と被尋候、それハ各次第、此方ゟノさしづハ不成由、刑
         |  ア被申候、尤之由にて被帰候事、
金山奉行ノ報告  |一、佐藤安右衛門・春木與吉登城、御金山共何も御かね出不申候故、掘子なともちり申候、取分採銅
金山かね産出ナシ |  所ノ御山金少も出不申候ニ付、今ノ分にてハ、ほりことも皆々ちり可申候間、かゝミ山ノ口御明
掘子等離散ス   |  可被成哉と談合にて、来月朔日ゟ可被明と談合究候、其外ケ条にて談合被仕候事、談合帳ニ付、
かゝみ山ノ口明ヲ |  (佐藤)
談合ス  談合帳 |  安右衛門ニ被渡候事、
         | (倉橋島、安芸安芸郡)
倉橋島ニ誂ヘシ荷 |一、倉橋にて彼 仰付候御荷舟之内、三四艘出来申候間、早々乗下、御米積上せ可申候間、御加子六
舟出ス      |   (松井か)
         |  十人少吉に付、くらはしへ遣可申と、野田小左衛門談合ニ相究候へ共、 三斎様御上洛ニ御加子
         |     (ママ)
         |  無之候間
         |

         |                                  
              廿二日 両人詰 曇 あられふる、 
         |
朝鮮信使迎接ニツ |一、細川清左衛門殿御出候て、官人参候時、下関迄候間、其留守之御番替被仰付可被下之由、御申
キ番替ノ願    |  候、御家老衆へ可申入之由候事、
         |                   (房)
服忌ノ伺     |一、同人、竹内吉兵衛申由ニ而、吉兵衛女尻共相果候故、子共御当番にも上り不申候、幾日過候て、
惣奉行指示    |                                (横山重嘉)(西郡清忠)
         |  御番ニ上り可申候哉、御留守之儀ニ候条、卅日ほと過候ハヽ、不苦儀と助進・刑ア被申候事、
         |                     (是門)
灰吹銀ニ極印打ノ |一、はいぶきニ平田こくい打申もくろく、米田與右衛門所ゟ参候ニ、御奉行衆三人判形ニ而御町奉
目録ヲ平田彦九郎 |                                        〃  

へ渡ス 高札ノ板 |  行両人判ニ而、平田彦九郎所へ被遣候事、幷ニ高札ノ板も被申付候事、
         |    (安)
         |一、佐藤長右衛門・春木與吉同道にて、式ア殿へ談合ニ被参候、子細ハ昨日ノ談合帳之内ニ御座候、
金山ノ者ノ退散ハ |       (前脱)  
知ラザルフリ   |  御金山之者筑へ参候とても仕様無之候間、行□を仕次第ニ、しらさるふりニ被仕候へと被申渡
         |  候、便ニか様ニ被得 御諚可然之由候事、
         |   

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■春日寺記が伝える、妙解寺建立の経緯

2019-12-24 07:16:51 | 歴史

 現在「阿部茶事談」をご紹介している。ちょうど忠利公の葬礼のことなどを「釈文」でご紹介したところだが、まだ1/4の進捗状況である。
さていろいろ伝えられている忠利公の最後に関する逸話は何処から出たのであろうか。荼毘に付された「春日寺(岫雲院)」の寺記などが出どころではないかと考えたりしている。
この「春日寺記」をよむと、忠利公の菩提寺として春日寺が候補の一つであったことが伺える。

  真源院様(光尚)御意に、春日寺所柄悪敷く、御参詣も御道筋宜しからず候間、寺地を外に見立て候て、御菩提所御建立成さるべき旨、
  奥田権左衛門へ仰せつけられ、方々寺地御吟味にて、鳶尾嶋崎・石神辺など然るべきやと権左衛門申上げらえ候得ば、是も所柄御意に
  叶はせられず、只今の妙解院の所に相究まり候。夫より当院に御影堂御建立遊ばされ、山林共本高五拾石御茶湯料を御寄附遊ばされ、唯
  今に至り御霊供日日懈怠なく相備え、御廻向相勤申候事、

細川家の菩提寺としては、藤孝・麝香、忠興・玉の四つ御廟がある泰勝寺がある。何故ここに納めなかったのだろうという疑問も残る。
熊本城からこの泰勝寺は「表鬼門」にあたり、「裏鬼門」の方向に建立しようと考えられたのであろう。
江戸に於ける将軍家の「増上寺」と「寛永寺」がそんな関係にある。
そこで三ヶ所ばかりの候補地が挙げられたが「所柄」が悪いという理由で却下されているが、光尚の気持ちは「裏鬼門」の線上にという気持ちがあったのだろう。
高麗門から御成り道を進めばわずかの距離であり、絶好の地が選ばれた。

鳶尾という地名が記されているが、私はこの地名を知らない。熊本地名辞典をみても存在しない。富尾の間違いではないかと思ったりしているが如何・・・   

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