津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■季節の写真「師走の紅葉」

2019-12-19 11:10:02 | 徒然

                                                         

 師走も残り十余日となりましたが、随分暖かくて、散歩の跡は汗ばんでにシャワーをかからねばならないほどです。
自衛隊敷地内の見事に紅葉した銀杏の木も、この数日ですっかり葉を落とし、裸になってしまい、下は見事な黄色いじゅうたんです。
我家の10センチにもみたない楓(トウカエデ)は、まだ葉を落とすことなく師走の後半まで頑張っています。
3~4センチしかなかった実生の赤ちゃんが、ここまで大きくなって色づくと本当にうれしいものです。今は私の机の上に鎮座しています。
今日は少し動かして、写真を撮ってみました。


                                             紅葉のしかと残って 師走かな   津々


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■御侍帳・家紋から考える(17)

2019-12-19 08:41:16 | 家紋

「」                                            

渡辺三郎左衛門は「渡辺市門家(南東11-19)」の7代目・才次(三郎右衛門)三百石である。
 家紋は「丸に竜胆紋」「丸に隅立て井桁」
渡辺十内は「渡辺 蔀家 (南東11-17)」の7代・十郎右衛門(十内)二百石である。
 天保十年一月から弘化二年十月まで、飽田詫摩郡代、上・下益城郡代、野津原鶴崎郡代、阿蘇南郷郡代などを勤めた。
 家紋は「石持地抜き隅立て角」
渡部作平次は「渡辺半次家(南東11-16)」の6代目・百五十石である。
 家紋は「石持地抜き三角に三つ星」

■渡 作之丞は誤植だと思われ、渡部作之丞であろう。「渡辺七衛家(南東11-24)」の6代目である。
 上記半次家と同族であり家紋もおなじである。

渡部平右衛門は「渡辺平之助家(南東11-18)」の6代目である。
 家紋は「渡辺星紋」である。
渡辺理左衛門は「渡辺 續家(南東11-25)」の3代目・嘉藤次(理左衛門)であろうと思われる。2代目も同じ名前だが時代が遡るように思える。
 家紋は「渡辺星紋」である。

渡部善右衛門は「渡辺三郎家(南東11-15)」、4・5・6代目が同名で人物の特定ができない。5代目の可能性が高いが?
 家紋は「地紙に三つ星」「丸に地紙三つ星」である。
和田団四郎は丹後以来の「和田摠右衛門家(南東11-23)」の7代目・團四郎であり、和田厳足の父親である。
 家紋は「隅切り平角に」「」
和田左大夫は「和田権五郎家(南東11-21)」の5代目・武学(養子 左大夫・十兵衛・九兵衛)である。
 家紋は「隅切り平角に四つ矢筈」
■和田 登は「和田文八郎家(南東11-22)」の4代目である。
          和田子成 名は登、字は子成。藩に仕へ食禄百五拾石、時習館授讀となり、
               又近習目付を勤む。尚詩を善せり。
               文化九年正月没す。享年五十五。墓は北岡正立寺。
 家紋は「■■■■」不明、「丸に三つ銀杏」

■和久田庄右衛門は「和久田恒喜家(南東11-20)」の4代・八之助(庄右衛門)である。
 家紋は「隅切り平角に剣酢漿草」か
■脇山半兵衛は「脇山半兵衛家(南東63-99)」の当代(6代)多十郎(半兵衛)である。寛政三年八月御知行被召上候とある。
 家紋は「幸い菱」もしくは「大内菱」か?
■渡部一藤次は「渡辺八右衛門家(南東11-26)」の3代目である。
 家紋は「二重隅切り角に三つ星」
■渡部直右衛門は「渡辺遊水家(南東11-27)」の2代目である。
 家紋は「   」不明
■柏原新左衛門は「柏原新住家(南東18-1)」の6代目である。四千五百石、寛政九年から文政十三年まで、用人・御留守居大頭・備頭大頭などの要職を務めた。 
 家紋は「八つ丁子」「三っ扇」
■柏原弥七左衛門は分家筋・「柏原弥九郎家(南東18-2)」の5代目、御鉄炮三十挺頭 五百石
 家紋は「隅切り平角に八つ丁子」である。
■片山多門は「片山多膳家(南東19-1)」の7代目・敬八(多門)である。文化七年から安政四年にかけて、 留守居番頭・番頭・中小姓頭・小姓頭・用人・留守居大頭
 などの要職を務めた。
 家紋は「五つ瓜に唐花」?、「五つ骨扇」
■神鷹小野右衛門は「神鷹仙右衛門家(南東16-21)」の3代目か(1-3代共同名である)、非常に珍しい苗字で特に熊本に集中している。
 家紋は「隅立て平角に違い鷹の羽紋」である。              

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■「阿部茶事談」(07)釈文

2019-12-19 06:50:02 | 史料

07     如是将軍家ゟ甚以御懇意之上使迄有
      と云共御療養不被為叶定業限りて
      寛永十八年三月十七日忠利公御齢五              細川忠利(1586‐1641)
      十四歳相奈し於他邦も聞傳ふる輩も
      あ王れ明君成し物をと追悼しならむ
      ハなし 此御別悲歎の余り三齋公追悼
      の御詠吟有
        行も道行ぬも同し道なれと
         連て行ぬそ別連とハいふ
      古今茶話尓云忠利公ハ文武兼備の名将尓
      して射御書數の六藝尓御達しまし/\て
      剱術抔柳生中条二流尓奥旨を極め被遊             柳生(新陰)流 中条流
      ける 御馬ハ別て折々ハ曲馬をも遊ハせし也

      歌道は冷泉為綱卿の御弟子尓て御逝去             冷泉為綱(1664- 1722)
      被遊時も為綱卿追悼の和文尓一とせ筑紫              生没年から忠利がこの人物の弟子という事はあり得ない。

      尓こと阿りし尓忠利公の戦功を柳営是を              藤本千鶴子氏の「校本・阿部茶事談」でも同様であるが、この間違いについての指摘はない。     
      賞して関西の籏頭を給ふと有
        御葬禮之事幷御家人殉死之事
      斯て可有事ならねハ飽田郡春日寺の院内

      尓して火葬尓なし奉り御遺骨を護国
      山妙解寺尓納奉る 元来光尚公の御舎弟

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