津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■鋭意努力中

2019-12-15 16:36:56 | 先祖附

                                                                          

                     
 細川家の二番家老・米田家に仕えられた、Y家の系譜をお預かりしている。

厚みが5㎝ほどもある貴重な資料であり、主家・米田家の史料も含まれており興味深い。
全300頁程に及ぶ大部で、先祖附や系図で50数頁に及ぶ。これを読んでほしいとのご依頼だが、お預かりして一月弱遅々として進まない。
陪臣とは言え、主家は大名並みの15,000石の大身である。数百人の家臣がいたと思われるが詳細を知りえない。県立図書館に米田家の侍帳が残されているが、どうやら水害か何かで水没でもしたのか、非常に状態が悪く頁をめくることが出来ない。家臣団の詳細が分からない中、この史料は大変貴重だと思い頑張っている。
年内には読了したいとご返事をしているが、只今28~9頁程の進捗である。それも文字が読めずに足踏み状態が続いているところだ。
すでに12月も月半ばになった。途中経過を報告しなければならないと思っている。

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■細川小倉藩(101)寛永元年・万日帳(九月廿七・廿八・廿九日・晦日)

2019-12-15 08:25:05 | 細川家譜

                        (寛永元年九月)廿七・廿八・廿九日・晦日

         |              
              廿七日 両人詰 晴天
         |
         |一、沢村大学、 三斎様御見廻参上之由候て、登城候事、
         |            沢村大学はこの直後三斎の御機嫌を損じて出国している。
         |            出国先の備前岡山藩主「松平宮内殿御詫言」により忠利により召返されのは寛永二年八月十八日である。(忠利書状)
         |            それより以降三斎には面談が許されず、寛永二十年に光尚に提出した「起請文」には、三斎に対する恨み言が書かれている。
         |            大学がこれ以降三斎に面談するのは、三斎の死の直前である。
         |                 
出船悪日ニツキ日 |一、江戸へ御飛脚、今日出船被申付候へ共、悪日之由候て、明日へ被指延候事
延        |
         |一、今日ハ江戸へ書状なと被認候故、万事之御用等被留候事
女敵討糺明一件  |一、田川郡助兵衛水せめ被申付候へ共、一昨日之糺明ニ少も無相違申分ニ候、則書物御座候事、
水責       |
         
         |              
              廿八日 両人詰 晴天
         |
下松屋闕所    |一、中津ゟ民ア殿へ申来候、中津下松屋孫右衛門御けつしよ被仰付候ニ付、小倉町人へかし付御座候
ソノ貸付米ノ取立 |  ニ付、中津へ罷こし申分有之ハ、埒明候へと申来候、御奉公人ニハ荒見弥太夫壱人御座候事、御
         |  奉行衆書付写うつし被申触候事、
         |       〃
         |    (氏久)
郡廻り      |一、田中猪兵衛、今日郡まわりニ罷出被申候事、
         |
         
         |              
              廿九日 両人詰 晴天
         |                 
豊後横目等着任  |一、杉山藤兵衛処ゟ式ア殿へ書状参候、御奉行衆へ見せニ御こし候、ふん後御横目衆今明日中ニ御着
進物ノ用意    |  被成候間、進物ノ用意被成候て可然之由、御申候事、
         |                                        (足立)
田川ノ松茸塩漬ヲ |一、田川ゟ松たけ出来申候、弐百本ほと塩つけ仕候間、桶しほ御こし候へのよし申越候、則あたち與
三斎へ進上    |                     
         |  兵衛ニ申被渡候、又 三斎様へ上ケ候へと、申遣候事
         |
鷹ノ鴨      |一、渡辺三蔵預御鷹、鴨弐つ取申候を、上ケ申候事、
         |                  (志水清久)                         (志水)
難破船ノ銀子スタ |一、式部殿・與左衛門殿・利斎登城、今日宗加所へ見廻ニ参候へハ、今度ノそこね舟ニ、牛介ニ被言
ル  半分ハ揚ル |  伝候銀子過分ニすたり申候、半分ほとハあかり申候、残る分を所ノ者かけ候て見可申之由候、然
残ル分ノ引揚   |  ハ、銀子二百め余入申候、此入目ハ宗加より出可申候、御船頭之内かうしやなる者壱人、小早ニ
         |                                           (鏡)
         |  而被仰付可給哉との儀ニ候、いかヽ可有之哉と御奉行衆へ談合、被指上せ可然由ニ究候て、善右
         |  衛門ニ被申付候、御船頭ハ太兵衛か弥右衛門か可然之由候、御加子被是入目之儀ハ、重而惣銀ゟ
         |  出候か、又宗加ゟ出候か、重而可有沙汰之由候事、
小笠原長元賄   |一、米田與右衛門・利斎御奉行衆へ惣談、民ア殿馬廻衆知行ノ口明不申候、是ハ民ア殿自分之賄切米
馬乗ノ分     |  取之分 御諚ニ而毎年御米御かし被成候、馬乗之分ハ何とも 御諚ム御座候、然共、此衆仕様無
         |  之候間、民ア殿自分之ハ各別にして、知行之口被明候へと、與右衛門殿利斎指帋遣候事、
豊後横目ヘノ音信 |一、豊後御横目衆ヘノ御音信物、御樽五・索麺二箱・鮎ノ酢二、角箱こしらへ被遣候事
物        |
              

              
         
     晦日 両人詰 曇 四つ時分ゟ雨
         |       (加室、周防大島郡)
         |一、友田次郎兵衛か室ゟ被罷下候、神谷半七歩之御小性衆罷下候、其外破損舟之様子、か室にて仕置
         |  旁之儀、書物具ニ御座候、御奉行衆へ被渡候事、
         |

                  (九月了) 

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■「阿部茶事談」(05)釈文

2019-12-15 07:12:54 | 史料

05      西国一時尓静謐する殊忠利公御父子
       御武功尓依之也 将軍家御父子の御軍功
       抜群の由 鈞命有之其賞不斜 加恩を
       授け為ふ 又戦死の輩遺跡子孫幼少と云
       共無相違禄を給ハり領国の諸浪士戦死
       の者尓ハ其妻尓月俸を給ひ他国の浪士軍
       役熊本尓加り者尓ハ袷一重白銀十枚完
       賜り各忝由奉謝退出す 此後戦死二百七十
       人手負千八百二十六人也 討死者惣追善
       の為安国寺ニ於て佛事執行す 忠利公           安国寺に於ける法要は現在でも行われている。
       御父子忝も自御焼香有けれハ此儀見聞
       する輩士たる者ハ云尓不及心無奴僕雑人尓
       至る迄領内於他邦も御仁政の難有事を
       奉唱感賞す 此君の為尓命を捧ん事
       塵芥よりもおしからすと感涙を流し
       勇みける 況や高禄を給ひ朝夕君邊尓
       勤仕して御高恩を蒙る面々尓於ておや
       忠誠盡さぬハなかりけり
          御所労御逝去之事
       有馬落城之後海内静謐尓して国家安
       全也けれハ両公参勤交代怠り為王す 今
       度の御軍功他尓り将軍家の御感ニ            ノ下ニ大=

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