津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「阿部茶事談」(11)釈文

2019-12-30 11:05:23 | 史料

11       召出 誰そ御香典拝領の者なし 五助甥両
        人有 兄ハ津崎平右衛門と云 弟ハ津崎庄左衛門
        と此庄左衛門か子を殉死の後家養子尓して
        津崎五助と名乗五人扶持被下被 召出後五助
        も養子を致し團次と云 病身故御給扶
        持差上奥田権左衛門組有野孫左衛門か子を養
        子尓して津崎五助と名乗御奉公尓被 召出
        今以相續首尾能相勤候也 又津崎平右衛門
        ハ殉死の五助由緒申立歩御小姓尓被 召出其
        子仁右衛門御右筆尓被召出御中小姓迄成老
        極致し養子平右衛門触組尓入此平右衛門も水
        野孫左衛門子也 百年御忌の御香典者様子有
        て白銀五枚を津崎仁右衛門頂戴す 忠利公
        御放鷹の折春日寺へ御立寄御茶被召上暫
        御休足の間御髭延させ給ひけるを剃刀せらるべ
        きとて住持尓髪剃刀を差上よと有ければ
        古剃刀を指上ける尓御手尓取らせられ御覧被成
        此剃刀尓て多くの死人の頭をこそけつらんと
        御笑いひ被成御快御髭を被遊ける ケ様の事
        共尓や春日寺此境内尓て御火葬也 又御遺言
                 本ノママ
        也とも云 右春日寺ハ法相宗の寺也 今ハ妙解
        寺末寺に成上代彼邊府中之時分洛陽の祇

 

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■大みそかは心静かに過ごそうかと

2019-12-30 08:18:50 | 徒然

                 市に入りてしばし師走の心かな  山口素堂

 スーパーの駐車場に餅つきの威勢の良い声が聞こえて、丸餅やお供え餅、又あんこ入りの餅などが作られている。
脇にはテント仕立てでお正月飾りなどが売られたり、その他お正月用品が店の外に並び商いをしている。
「市」とまではまいらぬが、まさに今年もあと一日に迫った師走ながらの光景である。
健軍神社では巫女さんたちが、破魔矢や御札やお守りなどの準備でお忙しそう、あいにくの雨で今日は御掃除の奉仕の人の姿は少ない。
郵便局(熊本東)の前は、年賀状を出すために車がごった返しの状態、職員の人たちが何人も外に出て車に近寄っては年賀状を受け取っている。
周辺の交通渋滞に繋がらないようにとの配慮である。是もまた、例年のこの時期の師走の風景ともいえる。
我家はといえば、「お節」は例年の如く注文済なのに、奥方が何やらせわしなくしている。
そうなるとこちらも、のんびりゆっくりしている訳にもいかず、玄関を掃除したり、御飾りを飾り付けたりと動き回っている。
バタバタは今日で終わりとして、明日はゆっくり過ごすことに致しましょう。

                 根松一本買うて師走の納めとす  津々

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■忘れられる地名

2019-12-30 08:03:12 | 地図散歩

 「熊日出版」の「花畑屋敷四百年と参勤交代」に、54頁から81頁にかけて、慶順公(韶邦)の初「御入国御行列之図」が掲載されている。
お花畑前から小幡宮にかけて藩士たちの行列をお待ちする姿が描かれているが、実際はそんなものではない。
まだまだ多くの侍・町民・農民がお迎えしているのだが、大いに省略されている。お待ちする藩士その他の人々の並び方などが詳しく描かれていて興味深い。
先頭を切るのは御役人の行列かと思えばそうではなく、褌一つの裸体の山鹿屋の人足たちが40人程で、「御銀櫃」など5つを運んで観音坂下にかかっている。いよいよあの急坂にかかる直前である。本隊は立町の横井口にまさに入ろうとするところだ。
行列は左から右へ動いているがその場面/\で方位は異なっている。横井口の手前に「馬追込東」の書き込みと道路の反対側には「浄行寺町入り口西」の書き込みが見える。つまりこの場面では右手が立町筋であり、左手は立田方面(豊後街道)である。
この立町横井口は、現在の国道3号線を横切り、立町筋に入り宗心寺のやや先に位置していたことが判る。
堅山南風先生の生家跡のやや北よりであろう。       知らなかった「馬追い込み丁」 
右手前に赤鳥井があり、右へ進むと見性寺前から必由館高等学校(旧・米田邸下屋敷)の通りである。

 立町筋から豊後街道へ出る喉元だが、宗心寺の前で道は少々幅広になっている。ここで隊列を整えて出発したと聞く。
やや興奮気味の馬は、この細い路地に追い込んで落ち着かせたというが、今この地名を知る人はあまりいないであろう。
「熊本県の地名」(平凡社)をみると、細い路地ではなく、「十五間四方の広場」と書かれている。
この地名自体も、熊本地名研究会の「くまもと城下の地名」や「熊本の消えた地名」、又、高田Drの「平成肥後国誌」でも触れられていない。
「御入国御行列之図」のたった数文字の書き込みは貴重である。熊本の歴史をうかがわせる、このような地名が消えていくのは何とも淋しい限りである。

 

コメント (2)
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