津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(172)寛永三年・日帳(十二月十一日)

2020-03-10 16:16:48 | 細川小倉藩

               (寛永三年十ニ月)十一日

         |        (国遠)       
         |    十一日  道倫
         |

         |  (蟹喰)
牢番ノ後家刀ヲ上 |一、かにはミニ而、後家上ヶ申刀、三宅勘十郎 御前へ上ヶ被申候事
グ        |
         |  (築城郡)
寒田牧山ノ死駒  |一、寒田御牧山ニ而、死申御馬ノ事
         |   十二月二日ニ死申候
  牝      |   一、女馬子   壱疋     毛あを
         |   同日ニ死申候
  牝      |   一、同     壱疋     毛同
         |   同三日ニ死申候
  牡      |   一、丸馬ノ子  壱疋     栗毛
         |      合三疋也
雪深ク死ス    |  右ノ御馬、雪ふかく候て死申候由、庄や三■左衛門所ゟ、御郡奉行塩木又丞・沢少兵衛方へ申
         |  越、則塩木又丞方登城候て、右之通ヒ申候、跡ニ残り居申御馬之子、まミも無御座候間、是も
         |  死可申哉の由、被申候事付、追込候て、かわせ可被申由、申渡候事、
         |            〃
薩摩船難破ノ刎米 |一、当十一月十八日ニ、さつま舟三十石五斗上荷を、国東多深浦ニて打候由申ニ付、御郡奉行衆承
ヲ引揚グ  石ニ |  届、人を出、拾五石五斗取上ヶ、石ニ付、拾八匁ニうりたて候而、かの船頭太右衛門と申仁
付十八匁ニ売立  |  ニ、御郡奉行衆ゟ被相渡由也、此書付小林半左衛門ゟ請取、式ア少殿へ渡申候処ニ、式ア少殿
代銀薩摩ノ使者ニ |  ゟ、只今さつまゟノ御使者ニ御渡被成由、右書付ノひかへ、他国段ニ入置候也、
渡ス  他国ノ段 |
         |                         (中津郡)
今居ニテノ振舞奉 |一、右ノさつま殿ゟノ御使者、中津へ被参、もとりニ今井ニ泊被申候、今居ニてノ御ふる廻奉行ニ、
行        |       西沢文右衛門ニ被 仰付候処ニ、文右衛門儀ハ、来十三日ニ 殿様中津へ被成御座候ニ付、御く
         |        
         |  わし上ヶ覚悟被仕候間、中津郡ニ在郷仕衆、田辺兵介・井関久馬介・寺尾左介、此三人間ニ壱人
         |  可申付由、式ア少殿ゟ被仰越候ニ付而、得其意存通、返事申候事、
         |                          (一長)
猪膝ニテノ振舞  |一、右ノ御使者もとりニ、いノひさニてノ御ふる廻奉行伊崎半丞所へ、今日書状遣申候事、
忠利中津参向ニ家 |一、大津留加左衛門・杉原忠兵衛、中津へ被成 御座御宿割奉行、御供之衆書立、右両人ニ被渡
中ノ宿割奉行   |  也
         |                      儀、
         |一、さつま殿ゟ之御使者、今井ノ泊御ふる廻奉行寺尾左介方へ申入候事
         |                                          (亀脱ヵ)
         |                                          続介所ニ被成
逸鷹ノ鷺ヲ捉リシ |一、規矩郡御横目、南方ニ而、御鷹鷺ヲ取居候を、すへ上ヶ申之由申候而、登城申候ヲ、直様御鷹場へ
ヲ居上グ     |                                          〃〃〃〃
         |  御座候ニ、すへさせに申候事
         |  遣申候事
         |  〃〃〃〃
         |一、岸川茂助、上田太郎右衛門手伝ニ付申候事、
入牢者      |一、田川郡秋永村ノ兵右衛門、籠者被 申付候事、但、山たちニあい候ものニ、宿をかし申ニ付、如
立山ニアイシ者ニ |  此也、
         |     (善同)
岡田善同使者   |一、岡田■■将監殿ゟノ御使ニ、御小袖壱つ被遣候由ニて、杉山伝介持せ被参候事、
宿ヲ貸ス     |
                    Okada Yoshiatsu.jpg
             岡田善同:慶長18年(1613)から寛永6年(1629)には美濃国代官(美濃郡代) 
 


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■開催の方向へ

2020-03-10 10:43:03 | 熊本史談会

 3月21日開催予定の史談会例会については、熊本市民会館に会場予約は出来ているが、講師への確認などを含めコロナ騒動で開催できるかどうかを心配していたが、平常通り開催する方向で進むことにした。
そこで慌てて会員の皆様への案内、熊本日日新聞の文化短信欄への掲載の依頼等バタバタしてる。
緊急突発的な事柄については、万全を期して対応したいと思っている。
今回は南北朝の末期、熊本を舞台としたいくつかの戦の中で、九州探題・今川了俊の軍忠状に登場する「藤崎城」を取り上げる。
「藤崎城」の場所はかって藤崎八旙宮があった当り(現在の熊本城内・藤崎台球場)だとされるものの、定かな場所の特定は出来ないようだ。
軍忠状には、藤崎城に対峙する「くまもとの城」の存在が判る。これがどこにあったのかは謎の中の謎となっている。

また藤崎城に係る「藤崎八崎(地名)」も同時にお話しいただくが、これも大変興味深いことである。

「“知るは楽しみなり”知識をたくさん持つことは人生を楽しくしてくれるもの」とは、かってのNHKの名物アナ・鈴木健二氏の言葉だが、今回も又「知るは楽しみ」を満喫したいと思っている。
又、コロナウイルス騒動で沈滞した気持ちを、振り払おうと思っている。

 

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■志方半兵衛言上之覚・11(12月29日付‐4)

2020-03-10 08:20:26 | 史料

15         年貢をなし候へと水籠ニ入色々のきしめいん
          御セめことくニ只今せめ候へ少目尓物を見セ
          可申候 此度無御責ハ御ひき不申と申候由申候事
        一、肥後様ゟ原之城へ御人数弐被差向と 上使之御
          衆へ度々被仰遣候所ニ板倉内膳殿はしめハ
          御人数被向候ニ不及由ニ御座候つ連とも城之内手わく
          御座候付御人数被差向候様ニとの御内存之由申候
          残 上使衆も内膳殿と御同前ノ由申候 榊原
          飛騨殿ハ御人数是非被差向候へとの御世事之由    
          申候 松平甚三郎殿へ被仰候ハ天草ハ肥後国之内
          ゆへ 越中様へ被仰付候処ニ天草ハ濟申候へ共天草
          ゟ之せんちよ之由ニて弐千も三千も肥後之御
          国へ参居申候 此もの共きり志たんして無之ニも
          極不申又きり志たん一揆之近国之儀ニ御
          
座候 其上天草尓も于今御人数之残置 上使
          之御衆へ御ちそうとして方々へ御人数被分置
          原之城之舟手へも大分之御てつほうを被
          渡置熊本八代をあけ原之城へ肥後様御人数
          

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■寛永平塞録より秋永氏抜書

2020-03-10 07:46:18 | 史料

 昨日ご紹介したオークションの文章である。

           寛永十五年
          一二月八日細川一手ヨリ
           三ノ廓外ノ水堀埋ム
           傳云嶋原ノ追手三ノ廓
           ノ外ニ古来ヨリ水堀アリ
           渫ク湛テ水草抔多ク兎
           角ニ城責ノ節障ニナルヘシト
           妙解公御了簡有テ長岡
           佐渡守ヱ可埋由被仰渡
           即備頭西郡要人・谷主膳
           其外ニ平野弥次右彳門・尾藤
           金左彳門・出田左兵彳・足軽大
           将中根市左彳門・国友式右彳
           門・高田角左彳門・楯岡孫一郎
           ノ面々ニ佐渡家司松井外記
           其外手ノ郎党等時分ノ鉄炮
           打スル者ヲ添■■ニ埋ントス
           妙解公 真源公共ニ大柶樓ヨ
           ■御見分■■佐渡・新之允
           等ハ竹束裏ニ有テ諸事ヲ
           差圖ス鉄炮大将ハ其組ヲ
           師て上箭ヲ打セ惣ノ人数ハ
                  フトン
           竹束ノ内ニ扣テ圃圓ヲ張り



           或ハ幕筵ナト釣テ一揆ノ
           鉄炮ヲヨケ足軽小者中間抔
           何モ土を運ヒ土俵ヲ持チ萱ノ
           類草ノ葉ヲ集メ何モ堀ヲ埋ント
           挊ケル一揆爰ヲ埋サセジト■所ニ
           集リ二重柵ヨリ鉄炮無間打
           カクル佐渡守家来山口彦之丞創
           ヲ被リ鉄炮小頭本田作兵彳足軽
           志水権之助・野間清右彳門是モ創
           ヲ被リ松山仁兵彳足軽ニハ板楠
           仁右彳門・平山與三右彳門ハ討死ス
           其外一組ノ手■死人多クハバラ■
           ■■倒レシ時城中ヨリ一同ニ鬨ノ声
           ヲ揚ケ門ヲ開テ突テ出シ故足
                      ナダレ
           軽共ドット崩レ侍ノ備ニ雪嶺カゝル
           時ニ佐渡家司松井外記・堀口庄右彳  
           門・秋永十郎左彳門踏止リ逃チル
                       カザシ
           奴原ヲ罵リ竹束ヲ手ニ々ニ笰
           テ一揆ニ向進行是ニ励サレテ何
           モ敵軍一同ニ守返シ波ヲ打如ク
           競カゝル故一揆難叶城中ニ逃テ入
           秋永十郎左彳門ハ真先ニ一揆一
           人切付テ己ニ首ハカシハスル時ニ
           一揆ノ鉄炮ニ中リ疵ヲ被リ働成
           兼候時分ニ一揆味方ノ手負ヲ
           引立テ城中ニ逃入ケル佐渡父子
           ■様子ヲ見テ貝ヲ吹テ人数
           ヲ静メ次第ニ堀ヲ埋メ道出来ス
           妙解公栖樓ヨリ使番ヲ以テ佐渡



          (妙解公栖樓ヨリ使番ヲ以テ佐渡)
           ニ被仰ケルハ只今騒動節ニ黒糸ノ
           鎧着スル者白歯者一人踏止
           リ小返ノ様子ナリシ何者ソト
           御尋アリシ時佐渡申上ケルハ
           火威ノ鎧ハ家司松井外記黒
           糸ノ鎧ハ同家士堀口庄右彳門
           白歯者秋永十郎右彳門
           由申上ケレハ
           妙解公太タ御感■■リ右ノ
           通水堀ヲ埋メ城ニ向テ路ヲ付ル
           節竹束ヲ以テ仕寄ケル其節
           心用鉄炮■寺本八左彳門組ノ
           鉄炮玉打横谷忠兵彳組ノ
           足軽十挺外張ニ出置テ何モ
           進テ仕寄■ル二一揆兵最早
           今日ハ乗取ルヽト思ニケル■ニヤ多
           ク此口ニ集テ鉄炮ヲ打カクル
           平野弥次右彳門是ヲ見テ真
           先ニ進テ鎗ヲ提テ譽■戸ヲ
           開テ出ントスル故佐渡是ヲ推留
           メケル

             (本文前頁に重複・省略)

            右者寛永平塞録ヨリ
            書抜之者也
            寛政六■年十月
                 秋永勝英

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