津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■即答「庄林隼人宛加藤清正書状」

2020-03-21 07:08:44 | 史料

■庄林隼人宛清正書状」については、昨日四苦八苦で九割方ほどで一休みしてしまった。
判らない文字については、文意を考えながら後は一文字ずつ、「くずし字解読辞典」でつぶしていかなければならない。
そう思っていた矢先、加藤清正研究の第一人者・F様から早速全文を解読していただきお送りいただいた。
只々感謝を申し上げる。

立花宗茂の臣・小野和泉とともに手柄をたて秀吉からの感状が清正の手元に届けられた。
そのことに対して「其の方一人、数万人の中から御感に預かった。自分も大喜びしている。」
「備前兼光の一腰を与え、帰朝後には加増をも申し付ける」と、面目をほどこした清正の素直な喜びに満ちた書簡である。
加藤家三傑の一人として今日までも称えられる人物である。加藤家改易後は細川家に仕えた。




                今度立左之先手         立左=立花左近・宗茂
                小野和泉両人勇      
               戦手柄之儀者今迄ニ      
               御沙汰置処明朝
               名古屋表より御感          名古屋=名護屋
                   状別紙の報到来候
               悦不過候分而其方
               一人数万人ノ中より預
               御感於我等大悦
               ニ候随而差来備前
               兼光之刀一腰遣之
               候何も帰朝之上可為
               加増候已上
                 三月十五日 清正(花押)

                庄林隼人との

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■原文に触れる「志方半兵衛言上之覚」(21)

2020-03-21 06:23:18 | 史料

                                           

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■秘史・阿部一族(3)

2020-03-21 06:22:12 | 史料

殉教

肥後入封の三年後にさらなる悲劇が忠利を襲う。寛永十二年(一六三五)十二月二十三日(西暦一六三六年一月三十日)、熊本の祇園山(現・花岡山)の禅定院にて、十七人の「キリシタン」が処刑された。
忠利の身内である小笠原玄也とその妻みや、九人の子供と四人の奉公人だった。
そして志賀休也とこさいしょうである。
玄也はガラシャ夫人自刃の時、介錯した小笠原少斎の息子であり、みやは加賀山隼人の長女である。ちなみにみやの妹もリユというキリシタンだった。リユの夫は細川家家臣の後藤又一郎で、黒田二十四騎の一人後藤基次(又兵衛)の二男である。この又一郎の家に居候していたのが、忠利殉死者の一人寺本八左衛門直生次(五十三歳、一千石)である。かつて大坂の陣で又兵衛とともに戦った。のちに忠興に仕えた。
忠利は小倉時代から玄也家族に再三再四、棄教を迫ったが信仰を棄てさせることはできなかった。先述の『イエズス会コーロス徴収文書』(一六一七年)の代表者に署名した「小笠原寿庵」は玄也であろうか。洗礼名はジョアン、ヨハネである。山鹿でひっそりと暮らしていた小笠原一家だったが、報奨金目的の訴人による長崎奉行への訴えだったので、忠利は守ることができなかった。
「何とて熊本へは訴人に出申さず候なりと尋ね申すべし候」(十月二十一日忠利書状)
(何故じゃ。ここは肥後だぞ。その訴人は何故に長崎へ訴えたのか。即刻、調べえい」)
悵然とした忠利の姿が浮かぶ。

寛永十三年(一六三六)、江戸幕府へのキリシタン隠匿の暴露を恐れた忠利は家臣らに転宗を迫る。結果、上級家臣を中心に二十七名から宗門改めの証文(転び証文)を取った。殆ど七月十三日の日付である。これは母ガラシャの命日の四日前であり、忠利の意図を感じる.
また、その他に侍や浪人など二十八名が転宗している。
何と忠利の周りに五十五名ものキリシタンがいたのだ。(『肥後切支丹史』上巻)
かつて宇佐郡の郡奉行だった宗像清兵衛はキリシタンとしての記録はないが、忠利は露見を恐れ、転宗を迫ったのではなかろうか。しかし、それを拒否した清兵衛に七月八日、切腹を命ずるがキリシタン嫌疑ではなく、「御咎之筋有是」とした。事件化を避けたのである。
これは江戸幕府も小笠原玄也一件の露呈から忠利身辺を注視しており、苦肉の策だった。
また、十一月十八日に忠利は鷹野から直接、阿部弥一右衛門宅を訪れている。
忠利にとって小笠原玄也の一件や家中キリシタンの転宗など心労の多かった年だったが、この訪問時に弥一右衛門に加増三百石、銀子五十枚下賜を与えている。(『森鷗外「阿部一族」―その背景― 吉村豊雄』 )

忠利は隠密キリシタン弥一右衛門に、マンショ小西神父の保護と信仰の堅持を命じた。
翌年、寛永十四年(一六三七)七月、母ガラシャ(秀林院)へのミサを断念するように(と見せかけて)、飽田郡立田山の麓に祖父母と母を祀る禅宗泰勝院を建立する。そして仏式で母の三十八回忌法事を行った。
しかし、肥後に秀林院は間違いなく存在した。そして断絶となる理由も。
「元和年中に豊前に秀林院を建て置かれ候を、当御国に御引きなされ候と聞こえ候とも、その年月・寺地の所柄併びに停廃の事もわかり申さず候」(『綿考輯録』)
(元和年間に豊前に建てられた秀林院を当国(肥後)へ移したと聞いておりますが、その年月や場所、ならびに断絶のことも分かりません)

切支丹一揆

寛永十四年(一六三七)十月二十五日に天草・島原の乱が勃発する。
農民一揆から始まったのだが、大規模なキリシタン一揆へと様相を変えた。
幕府は板倉重昌を上使として派遣する。道中、十一月二十六日に小倉に宿泊することになるが、奇妙な事件が起こる。宿所は峰高寺であるが、到着前に失火により焼失したという。(宿泊後の説あり) この峰高寺はかつてガラシャ夫人の菩提寺秀林院があった地である。また、重昌は翌年元旦に眉間に銃弾を受け、戦死した。撃手は鉄砲の名手三会村金作(駒木根友房)で、元小西行長の家臣であった。
不思議な因縁である。(『小倉のきりしたん遺跡』木島甚久著)

翌年二月、原城本丸の一番乗りを果たそうとする細川軍は激しい攻撃をかける。阿部弥一右衛門の息子権兵衛や五平太兄弟の姿もあった。(『綿考輯録』)
本丸に乗り込んだ忠利は一軒の家に火矢を撃ち込むように家臣に命じた。焼け落ちる寸前に乗り込んだ歩小姓陣佐左衛門は、一つの首を提げて出てきた。これが首魁天草四郎時貞の首だった。

籠城する一揆軍から男の命と引き換えに女と子供の助命を願った矢文が幕府軍に放たれたが、総大将松平信綱は「大勢之人数ほろぼし候上は、中々虫にても助そうろう事成間敷候」(大勢の者が犠牲になっているので、虫でも助けることはできない)とした。(『検証島原天草一揆』大橋幸泰著)

忠利は多くのキリシタンたちが自害する様子を目の当たりにしている。
「中々奇特なる下々の死、言語を絶し候」(「三月朔日忠興宛忠利披露状」『新熊本市史』)とあり、忠利はその死を称賛しているが、あまりの凄惨さに絶句している。
しかし、忠利は胸を突き上げられるような痛みを感じていた。それは罪悪感だった。
(母上、赦してくだされ)
信仰のために散っていったキリシタンへ鎮魂の祈りを捧げるキリシタン忠利の姿があった。大胆にもマンショ小西を侍姿に扮させ随行させていたのだ。四郎の首にミサを授けた。
乱のもたらしたものは幕府のキリシタン根絶だった。
寛永十六年(一六三九)、幕府はキリシタン根源であるポルトガル人の追放と来航禁止を諸大名に伝えた。
特にキリシタン王国だった九州の大名には大きな負担を強いられた。
寛永十七年(一六四〇)、忠利は将軍家光からキリシタン根絶の厳命を受けており、
有馬豊氏らに宗門改めについて情報交換をしていた。(『大日本近世史料 細川家史料二十五』東京大学史料編纂所)

別れ

寛永十八年(一六四一)の年明けから、忠利は身体に異変を感じた。指や足に痺れがあり、脳卒中といわれている。しかし、正月二十三日、弥一右衛門を訪ねている。(『森鷗外「阿部一族」』―その背景―)
花畠の忠利居住から、山崎の弥一右衛門の屋敷は目と鼻の先ほどである。
茶室でどのような話がなされたのであろうか。忠利の呂律がまわらない状態で語ったことは今までの弥一右衛門の労苦への労いの言葉だった。
弥一右衛門は顔を上げることができなかった。ただただ落涙で畳を濡らしていた。
「一人當千と成る事は、兼ねてより一命を捨て、主人と一味同心して居る故也」
(主人の為に命を捨てる時に一人当千と成るのは、かねてより一命を捨て、主人と一味同心しているからである。)(『葉隠』聞書第一之九)
この時、弥一右衛門は泉下となる忠利にお供することを心に誓った。
蝋燭に照らされたマリア像は慈愛にあふれた眼差しで二人を見ていた。
これが、二人の今生の別れとなった。そして母ガラシャへの最後の祈りだった。

三月十日付嫡子光尚宛ての自筆の書状には、「右のてくびより手なへ申すばかりに候、しに申すべき様にはこれなく候、心安かるべく候、以上」
(右の手首から腕にかけて手が萎えているだけだ。死ぬようなものではあるまい。安心せよ。以上)とあり、これが絶筆となった。(『江戸城の宮廷政治』)
十四日、忠利の容態が急変して危篤状態となった。
「越中煩ひ、この中我々にかくして候て、よきよきとばかり申すに付き」(忠興光尚宛書状)
「忠利の病気を私たちに隠しており、良い良いとばかり言っていたのに」と父忠興には病状の事は言ってなかった。危篤と聞いて八代から駆けつけた時には目も開けず、誰であるかもわからなかった状態だった。
そして、三日後の十七日、忠利は静かに息を引きとった。享年五十六歳であった。奇しくも十七日は母ガラシャの命日である。
忠利は母ガラシャの元へ旅立ったのだ。
意識不明の三日間、忠利はパライソの母や加賀山隼人、小笠原玄也家族ら多くの殉教者と再会を果たしていた。美しい聖歌とマリアの光に包まれていた。

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