Youtubeを見ていたら、ある水彩画家が「あじさい筆」を使っておられることを知った。
「あじさい」とはあの梅雨時に咲くあの「紫陽花」である。「あじさい」の枯れ枝を使ってのことだ。
大まかな線を耐水性の墨もしくはインクを使って書くときに、この「あじさい筆」を使われるというが、全くのオリジナルということであった。
それから水彩で色を付けていかれる。見事な作品が紹介されていた。
https://www.youtube.com/watch?v=kG7J7yFz1js&t=431s
散歩の帰りに、新芽をつけだしている近所の紫陽花の、枯れ枝をニ本ばかり頂戴して早速試してみた。
私は絵の方はあまり得手ではないから、書の方で使えないかと思ってのことだ。
元々書道を基礎から嗜んでいないので、古文書に記されているような文字が毛筆ではどうしてもうまく書けない。
「あじさい」をカッターでいろいろカッティングしては、試してみるとなかなか面白い線が現れる。
起こしたり寝せたりしてみると細い線や太い線、かすれた線や時には二重線などが書けて中々面白い。
いままでも柳の枝や、竹、割りばしなどいろいろ試してみたが、この「あじさい筆」もいろいろ使ってみようと思っている。
阿蘇の根子岳を書いてみたいと思っているが、何とか使えないものかと思案している。
野田喜兵衛(六十九歳 四月二十六日)
野田喜兵衛の父は野田美濃といい天草伊豆守の家老であった。喜兵衛も仕えていたが、伊豆守の没落後に浪人となり、豊前中津にて忠利に仕えた。(『綿考輯録』巻五十二)
ところが『綿考輯録』(巻二十六)によると「天草本渡城城主天草伊豆守種綱三男野田喜膳」(伊豆守一門家老野田美濃の養子)とあり、天正十七年(一五八九)十一月二十五日に天草本渡が没落後、養父は討死し、遺言により丹後の細川忠興を訪れたとある。首に家系図を掛けていたという。
忠興は十七歳の喜善(喜兵衛)を見て野田姓を与え、一句詠んでいる。
天草は藤の名所ハきかさるに野田と名のるハ武士としらるゝ
天正十七年は小西行長の宇土城普請を拒否した河内浦城主天草久種が行長と加藤清正に攻め落とされた年であるが、一族の本渡城主天草種元も落とされている。(天正の天草合戦)
永禄十二年(一五六九)、久種の父天草鎮尚(しげひさ)がイエズス会修道士ルイス・デ・アルメイダを招聘し、キリスト教の布教を認め、自らの家族と共に洗礼を受けたことから、天草全土に広がった。(一五七一年、フランシスコ・カブラルにより)(『日本史』ルイス・フロイス)
また、久種は一揆敗戦後に行長の家臣となり、本渡の代官に任ぜられたが、領地に教会やコレジオを創立し、父とともに天草のキリシタン布教に貢献した。聖堂は三十カ所以上あった。(『一五八二年の日本年報』)
天草一族の喜兵衛は当然の如くキリシタンであった。
忠興時代から細川家に仕え、小倉藩時代の寛永元年(一六二四)八月十八日には初代銭鋳奉行(銭鋳所は田川郡香春)に任ぜられている。(『日帳』) 喜兵衛五十ニ歳の時である。
実は四日前の十四日に「瀬崎猪右衛門」が銭鋳奉行に指名されているが、「罷りならず」と辞退している。
興味深いことに、猪右衛門もキリシタンであった。
それは二人とも、寛永十三年(一六三六)七月十三日にキリシタンから仏教徒に転宗しているからだ。また、細川家家臣に八代与力衆二百石の天草十太夫の名があるが、久種の近親者である。やはりキリシタンであった。また同日に転宗している。(『肥後切支丹史』上妻博之編著 花岡興輝校訂)
三人とも、忠興時代の慶長十九年(一六一四)頃に一旦、棄教していたと考えられるが、忠利時代(一六二一年~)に立ち返った(再びキリシタンに)ということだろう。
銭鋳所は田川郡香春町採銅所(殿町山の方遺跡?)にあったが、この地帯の金山(かなやま)で多くのキリシタンが坑夫(女性も)として働いていたと考えられ、忠利はあえてキリシタン奉行を配したのか。
阿部弥一右衛門と宇佐郡 (年齢、殉死日不明)
阿部弥一右衛門は殉死の際は千百石の上級家臣であった。
出自は広島大学の藤本千鶴子氏の研究により宇佐郡山村(現・JR宇佐駅東の大字山)の惣庄屋であったことが判明している。そして、寛永五年(一六三二)九月に忠利肥後転封直前に家臣として召しかかえられている。(森鷗外「阿部一族」―その背景―』 吉村豊雄著 熊本大学学術リポジトリ)
わずか五十石の農民身分の者がどのような理由で忠利側近となったのだろうか。
あまりにも謎に包まれている人物である。
『小倉藩人畜改帳』(元和八年(一六二二))の宇佐郡における山村の村人数一五八人の内、九十三人が惣庄屋の者とあり、郡最多でかなりの実力者であったことが窺える。手長名は山村与右衛門であり、弥一右衛門の父である。
忠利の寛永九年(一六三二)九月十一日付『奉書』には山村弥一右衛門に「別之御用」とあり、これが惣庄屋から家臣に取り立てられる大きな理由である。(『森鷗外「阿部一族」―その背景―』)
「別之御用」とは何を指しているのだろうか。まず、細川黒田豊前入封前の大友時代の宇佐郡を見てみよう。
キリシタン大名大友義鎮(よししげ・宗麟)の義兄(奈多夫人の兄)である田原紹忍親賢(ちかかた)の妙見岳城(宇佐市院内町香下)は宇佐郡の中心的存在であった。親賢は宗麟の第三子大友親盛を養嗣子に迎えていた。また、親盛は洗礼を受けており、洗礼名はパンタリアンである。『一五八二年のイエズス会日本年報』
この人物が後の細川家にて二千石で仕えることになる松野半斎親盛である。兄の親家(宗麟二男)、松野右京正照(宗麟嫡男吉統の二男)、志賀左門(妻は宗麟の娘)など多くのキリシタン旧大友家臣も仕えた。
親盛は慶長十九年(一六一四)に仏教に転宗しているが、再びキリシタンに立ち返り、寛永十三年(一六三六)に禅宗に転宗した。(上級家臣を中心に二十七名『花岡興輝著作選集』) 後述するが、元和三年(一六一七)にイエズス会へ地区代表者の一人として自署した文書を提出している。つまり、すぐに立ち返ったのである元和五年(一六一九)に殉教した藩内キリシタン柱石であった加賀山隼人の後継者と目される。つまり筋金入りのキリシタンである。
親盛のキリシタンになることを反対していた兄大友義統(よしむね・宗麟嫡子)はやがて宇佐の妙見岳城にて洗礼を受けることになる。
宗像兄弟 (ともに年齢不明 五月二日)宗像兄弟家
天正十四年(一五八六)十二月の戸次川(現・大野川)の戦いにおいて九州平定を狙う豊臣秀吉の傘下に入った大友義統は薩摩国の島津家久の猛攻により敗走した。
豊前にいた黒田官兵衛を先鋒隊とする大将羽柴秀長、宇喜多秀家らの秀吉軍と合流するのだが、官兵衛は義統にキリシタンとして豊後に帰国することを望む。
イエズス会士ルイス・フロイスの『一五八八年二月二十日付、有馬発、イエズス会総長への書簡』(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)に詳細に記録されている。
ペドロ・ゴメス神父は「一五八七年四月二十七日、親賢の城(妙見岳城)の中で、国主フランシスコ(宗麟)の息子である嫡子(義統)に洗礼を授けた。」とある。
この時、のちに小倉藩でセスペデス神父と活動を共にする日本人修道士ジョアン・デ・トルレスも同伴していた。
「嫡子は、当時彼と一緒にいた多くの武士や殿たちと共に、ゴメス神父から洗礼を受けた。」
この武士の中に宗像鎮統(しげむね・鎮続しげつぐ)がいたとされる。(『豊後の武将、宗像鎮続、大友義統の重臣』矢島嗣久著) 元は宗像大宮司宗像氏の一族だったのだろう。
また、『イエズス会一五九六年度日本年報』に「豊後に宗像という名のキリシタンの貴人が住んでいた。彼の息子は異教徒であったが、高貴な生まれであったので、国主フランシスコ(大友宗麟)の二人の娘の一人モニカを夫人にしていた。」とあり、「彼は(修道士)からキリシタンの教えを聞いて、ついに家族全員とともに洗礼を授かり、モニカのこの上ない喜びとなった。彼の兄弟も二十人以上の仲間たちと一緒に、彼に倣って受洗した。」
この「宗像」は鎮統と考えられ、モニカは宗麟が奈多夫人と離縁後に婚姻したジュリアとの間にできた娘である。
この時の鎮統は義統改易のため、大友家筆頭家老田原親賢(元妙見岳城城主)と共に岡藩(竹田市)の中川秀成(ひでしげ)の客分与力となっていた。
鎮統は中川家に叛旗を翻し義統につき、慶長五年(一六〇〇)の石垣原(別府市)の戦いで戦死する。
忠利殉死者に宗像姓が二人いるのだが、加永衛景定とその弟吉太夫景好である。宗像兄弟には他に弟二人いたが、藩主光尚の命に従い思い留まった。(『歴史上の「阿部一族」事件』) この宗像家は鎮統の一族と考えられる。
実は、宗像兄弟の父清兵衛景延は元和元年(一六一五)に宇佐郡の郡奉行(こおりぶぎょう)であった。この年は幕府による禁教令が発令された翌年であり、藩主細川忠興は家臣らに転宗を迫り、従わなかったものには極刑に処すとした。
その言葉通り、豊前国の最初の殉教者が出た。
小倉に片野八十右衛門という敬虔なキリシタンがいた。友人や妻や身内、土地の奉行らは、彼に転ぶ(転宗)ように何度も説得したが、すべて拒絶した。ついに身内の宗十郎が、彼の名のもとに偽の転び証文を奉行に届けた。しかし、やがて、そのことを聞き及んだ八十右衛門は奉行所に出向き、キリシタンであることを伝えた。八ヶ月の収監の間に多くの者たちから説得されるが、転ばなかった。
一六一五年三月十八日、忠興はついに死罪を宣言し、斬首された。享年三十三歳だった。(『一六一五、一六年度・日本年報』)
藩内では忠興時代(~一六二〇)に多くの殉教者を出すことになるのだが、忠利時代は一人いた。寛永元年(一六二四)に成田喜右衛門に転宗を説得するも叶わず、死罪にしている。これは何らかの理由があったと考えられる。
このように忠興の迫害が厳しくなる中、中津にいた忠利は郡奉行であった宗像清兵衛とキリシタン対策について話し合ったのではないか。
右田因幡 (六十四歳 四月二十七日)
右田因幡統安(むねやす)は、かつては大友家牢人(浪人)だったとあるが、右田家は先祖以来、松野半斎親盛の家(田原家)に仕えていた。大友氏没落後に浪人となり豊前小倉の町屋に住んでいたところ、兵法の使い手であったことが、忠利の耳に入った。やがて、仕えることになるが、呼野金山にて運上取立や金銀吹替両替の職を得た。後に忠利と共に肥後国へ移る。(『綿考輯録』)
殉死を覚悟した因幡は親盛の家に呼ばれ、追腹を思い留まるように言われたが、忠利から受けた大恩に報いるとした。『大内時代の宇佐群衆と妙見岳城督』(北九州市立自然史 二〇〇四年)に右田興実(天文十三、十七年)とあり、右田家は宇佐郡の土豪だったと考えられる。
田中意徳(六十三歳 六月十九日)
意徳は忠利と愛宕山にての学友だった。算術に長けた意徳を忠利は側近とした。幼い頃からの付き合いで気心が通っていたことであろう。(『綿考輯録』)
さて、意徳は男子がいなくて、実弟の絵師永野一閑の嫡子甚左衛門を養子に迎えていた。ところが、意徳殉死後の六年後、正保四年(一六四七)四月、田中甚左衛門がキリシタン疑惑で穿鑿された。
実父一閑が堺でかつてキリシタンであり、甚左衛門自身もキリシタンだったのである。(一閑は熊本城下浪人として転切支丹の記録あり『肥後切支丹史』)
しかし、元和六年(一六二〇)に南禅寺にて転宗し、十一年前(一六三六)に大阪で浄土宗専念寺の旦那になったと申し開き、堺へ送られて証明することができた。(『新熊本市史』)
堺はフランシスコ・ザビエルも訪ねた地であり、小さな福音の種を蒔いていた。
『イエズス会一五八一年の日本年報』によると「堺の市は日本全国で最も富み、また土地広くして多数の富裕なる商人が住み、かつ自由市で大いなる特権と自由を有している。」「百人のキリシタンがおり、その中に身分の甚だ高く名誉のある者が数人ある。」とある。
日比谷了珪や小西隆佐(行長の父)など敬虔なキリシタンを生んだ。
また、慶長五年(一六〇〇)七月に生害した細川ガラシャの遺骨を葬ったキリシタン墓地も堺であった。
一閑が堺でキリシタンということは実兄意徳もキリシタンであった可能性がある。
意徳は十九人目の最後の殉死者となった。
(続く)
(寛永三年十ニ月)廿日
| (国遠)
| 廿日 御横目道倫
|
鉄砲足軽江戸ニテ |一、御鉄炮衆松尾清太夫、江戸ニて銀子拾匁かり申、則借状写被差越ニ付、松本彦進・豊岡甚丞所へ
ノ借銀国元ニテ取 | 持せ遣、可被取立由、申渡候事、
立 |
蔵奉行貸米 |一、四斗五升ハ藤田弥兵衛ゟ 富田十太夫与
| 丸見少左衛門
|一、四斗五升ハ吉用忠右衛門ゟ 同
| 川上角之介
|一、四斗三升五合ハ同人ゟ 同
| 山本弥次右衛門
| 右之分、当座かりニかり申由、書付上り候事、但、右ハ切手一枚、
吉用久八貸米 |一、米五斗元 吉用久八ゟ
|一、五匁壱分元 同人ゟ
| 右ハ、山川惣右衛門与ノ古屋新五郎かり申由、書上候事、
米一石ノ御蔵切手 |一、米一石之御蔵切手、藤田弥兵衛ノ御蔵子三右衛門手前ゟ、御中間頭平田勘兵衛うらニ居申候畠作
ヲ蔵子貸与ス | 五郎助と申ものかり申、御年貢ニ払申候、未三右衛門ニハ米払不申由、書上候事、
蔵奉行貸米 |一、米五升、吉用忠右衛門ゟ御くわノ六右衛門・久三郎・孫左衛門此三人ニて、当春四わり付ニ〆か
| り申由、御くわ頭喜右衛門書上候事、
| (成政)
道中駄賃銀遣銀 |一、江戸ゟ、坂崎清左衛門被罷上候時、道中駄賃銀幷御鉄炮衆遣銀ノ書付被越候を、金子・中神所へ
| 持せ遣候事、
蔵奉行貸付米元利 |一、藤田弥兵衛手前ゟ、■野原善太郎米壱石三わり付ニ〆借用仕ニ付、元利壱石三斗之内八斗、吉用
蔵奉行ニ預ク | 忠右衛門・坪井五郎太夫方ニ預ヶ、其預り切手藤田方へ渡、其かへ切手ハ取不申候、〆五斗も払
替切手 | 不申由、申上候事、
鍋島ヘノ歳暮祝儀 |一、遠坂関内、肥前へ歳暮之呉服持参被申候処ニ、御小袖弐つ被下候由被申候、御茶をも被下由也、
ノ使者 |
蔵奉行蔵子山越ヨ |一、御蔵奉行衆幷御蔵子・山越迄、東西町中かり物・預り物有之との帳四冊幷御蔵切手かい候ものゝ
リ町中借物預リ物 | 帳弐冊、合六つ、御町奉行衆ゟ被差上候を、星出市左衛門・河部加兵衛両人ニ渡ス事、
ノ帳 御蔵切手 |
購入者ノ帳 |
|一、野原善太郎元来壱石出入書物壱枚、市左衛門・加兵衛ニ渡ス事、
|
江戸京ヘノ文箱ノ | 明日江戸・京へ被罷成御上せ於文箱覚
覚 |
| 小野九右衛門
京調物奉行へ |一、御文箱壱つ 佐藤 少九郎 三人へ
| 石本 三介
|
| 松野 織ア
江戸留守居へ |一、同 壱つ 小篠次大夫 三人へ
| 町 三右衛門
|
| (直寄)
諸大名ヘノ書状 |一、同 壱つ 堀丹後様へ
| (利勝)
|一、同 壱つ 土井大炊様へ
| (忠澄)
|一、同 壱つ 加々爪民ア少様へ
| (長重)
|一、同 壱つ 浅野采女様へ
| (正勝)
|一、御文箱壱つ 稲葉丹後様へ
| 合御文箱七つ、山崎傳左衛門被持出候事
|
| (細川光尚)
宮村千斎小者ノ江 |一、御六様被 召仕候宮村千斎小者、今迄ハ御切米三石宛被遣候へ共、江戸ニ相詰申ニ付、三石ニ
戸詰ノ切米増願 | 而ハ何共不罷成候間、何も小者なミ五石にて御座候間、其通ニ被成下候様ニと、千斎親方へ申
| 越候、如何可有御座哉、奉伺 御諚候、以上、
| 十一月廿日 (浅山)
| 清右衛門
| (田中氏次)
| 與左衛門
| 飯田才兵衛殿
|
| 林角兵衛を以
惣並五石 | 右之分ニ書付、〇得 御諚候処ニ、尤ニ被 思召候間、惣なミの五石ニなし可被遣旨、被 仰出
| 候事
江戸ニテふる花中 |一、道家次右衛門、中津へ明日参候ニ付、江戸ニてふり申花ノ由ニて、中津へ被遣候を、宇野五郎左
津へ送ル | 衛門次右衛門所へ持参候而、直ニ相渡由、被申候事、
|