タモリ氏と林田アナのコンビによる「ブラタモリ」最終回の放送は「島原・天草~なぜキリシタンは250年も潜伏できた?~」が放送された。
天草崎津と原城跡を紹介していたが、潜伏切支丹の信仰を守ろうとするために、踏み絵を踏み、仏教寺院の檀徒となるなどの多様性を知り、驚き入ったことであった。
切支丹禁教により細川家中では棄教を拒んだ、加々山一族が誅伐された。
その他の多くの切支丹信者は「転んだ」とされるが、当事者たちの心の中には密かな信仰が継続されていたのではないかと私は思ってきた。
為政者としての忠興や忠利は、心ならずも(・・)加々山一族を誅伐したが、妻であり母であるガラシャの深い信仰は否定しがたいものである。
「何故切支丹であったのか」という想いは深いものがあったように想像する。
崎津の潜伏切支丹の250年に及ぶしたたかな生き方や、多くの犠牲者をだした天草島原の乱に於ける切支丹信者の生きざま、死にように忠利は驚きの声をあげている。
母・ガラシャの信仰が頭をかすめたかもしれない。
今回、ご厚誼を頂いている小倉在住の名誉ソムリエの小川研次氏(小倉藩葡萄酒研究会)が、そんな切支丹棄教者たちのその後の生きざまを取り上げた36頁に及ぶ論考をお送りいただいた。偶然のタイミングに驚いたことであった。
大きく『阿部一族』の一考察 と 秘史『阿部一族』の二部仕立てとなっている。
お許しをいただいて、数回にわたりご紹介したいと思う。ご期待戴きたい。
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『阿部一族』の一考察
小倉藩葡萄酒研究会 小川研次
■プロローグ
森鷗外の『阿部一族』は肥後藩主細川忠利が逝去の折、十九人の殉死者の一人阿部弥一右衛門の生き様を描いている歴史小説である。しかし、弥一右衛門の隣人だった栖本又七郎の『阿部茶事談』を種本としており、史実とは若干異なっていることは、今では周知の事実である。鷗外の書によれば、弥一右衛門は忠利から追腹(殉死)を禁止されており、苦悩のうちに生きながらえようとするが、周囲との軋轢から死を選んだ。それは殉死ではなく、「犬死」であるとした。
しかし、寛永十八年(一六四一)四月二十六日の細川家『日帳』には、その日の殉死者の中に弥一右衛門の名がある。
また、忠利菩提寺妙解寺跡には弥一右衛門の名を刻む墓碑を含む十九基の墓碑が並んでいる。つまり「犬死」ではないのである。
確かに新藩主光尚(みつひさ)は殉死を禁止した。それは知行や屋敷などの身内への相続を認めない「跡式断絶」を意味する。亡き主君の恩よりも現主君への奉公に励めということだ。しかし、十九人は犬死に覚悟で光尚の命に反して自死する。ところが、光尚は全員に「殉死」と認めたのだ。(『歴史上の「阿部一族」事件』藤本千鶴子著)
物語はこれでは終わらない。忠利一周忌(実際は三回忌)に起きた事件が中核を担い、最大の「ミステリー」となる。
弥一右衛門の長男権兵衛が仏前にて髻(もとどり)を切り、位牌の前に供えたのだ。
それは武士としての生き方を捨てると同時に忠利への忠義を立てること(喪に服す)と捉えられるのだが、現藩主光尚への侮辱行為とされ、権兵衛は捕縛される。
やがて権兵衛の「狼藉」は光尚体制への反逆行為とされ、その嫌疑は阿部一族に及ぶことになる。上意討ちにより山崎の一所(権兵衛屋敷)にいた一族は、全員誅伐され、権兵衛も縛首となった。これが「阿部一族」事件である。
この不可解な事件については先達により諸説あるが、六人の殉死者(野田喜兵衛、阿部弥一右衛門、宗像加永衛、宗像吉太夫、右田因幡、田中意徳)に焦点を当て、そのミステリーに迫ってみよう。(名前には年齢と殉死日)