秘史『阿部一族』
小倉藩葡萄酒研究会 小川研次
■プロローグ
山村与右衛門は宇佐郡山村の惣庄屋だったが、コンフラリア(信心の組)の代表者の一人であり、信徒の葬儀や洗礼、また神父の手配など行っていた。
慶長十八年(一六一三)十二月十九日の幕府による禁教令以降は、藩主細川忠興はキリシタン穿鑿を強めていた。多くの信徒が人望のある与右衛門に頼っていった。
後の元和八年(一六二二)の『小倉藩人畜改帳』には、山村村民一五八人の内九十三人もの「身内」を抱え、藩内では突出している人数である。大惣庄屋である。
それは家族も含めて全員キリシタンであった。山村の惣庄屋は、まるで「教会」の様相だった。
嫡子弥一右衛門もしっかりと父を支えていたが、将来、大きな運命を背負うことになる。
慶長十九年(一六一四)、忠興の強制転宗により、宇佐郡の仏教への転宗者は藩内最大の人口(二一,八三八人・元和八年)にもかかわらず、わずか五名だが、それは寧ろコンフラリアの組織運営がしっかりと機能している証である。
最も慎重にならなければならないことは、宇佐郡は豊後との国境にあり、潜伏した神父らを安全に要所に運ぶことだった。
特に忠興が教会の破却や転宗政策の徹底化を図った慶長九年(一六一四)から忠利が元和七年(一六二一)六月二十三日に小倉城に入るまでの七年間は小倉は厳しい監視下に置かれていた。
当然、この間はガラシャ夫人のミサなどは不可能であった。忠利の居城中津城で行われていたと推考する。
忠利小倉城入城以降は、直ちにガラシャ菩提寺秀林院(現・北九州市立医療センター)を建立している。そもそも、慶長十七年(一六一二)以降、忠興はガラシャのための教会を破却しているにも関わらず、菩提寺を建立していない。『綿考輯録』に位牌を南蛮寺(教会)から浄土宗極楽寺(現・廃寺 HIS北九州支店辺り)へ移したとあるが、忠利建立まで、その寺で法事が行われていたのか。
禁教令発令(一六一四年)の翌年からのイエズス会記録を見てみよう。
「豊後にいる司祭たちは豊前の国まで足を延ばしており、特に豊前の国の中心都市である小倉の市(まち)にも足を運んでいる。市の城門の上から見張っている警備員(の眼)をはばかって、夜、変装してからでなければ市に入らない。この地のキリシタンは(迫害という)この試練にも見事に耐えている。」(『一六一五、一六一六年度イエズス会日本年報』)
豊後から宇佐郡、中津、そして小倉へ、「市の城門」は中津口である。「夜、変装して」とは、外国人司祭であり、当時、豊後にいたのはペドロ・パウロ・ナバロとフランシスコ・ボルドリーである。
また、中浦ジュリアン神父も藩内に潜伏していたが、彼の言葉と思われる記録も残されている。
「私は一年間に三度、小倉に行きました。それも辛い苦労をし、明らかに生命にかかわるような危険を冒しながら夜を日に継いで歩いたのです。豊後へは二度行きました。そして、各地で大勢の人々の告白を聴きました。しかし、そこで私が滞在していた家から殆ど外へは出ませんでした。なぜなら、それらの町々で私を匿ってくれた人々が ―彼らはそれぞれの町で重立った人々でした。―私に外出することを許さなかったからです。」(同上)
ここから見えてくる「滞在」先は宿主であるコンフラリアの代表者宅である。『コーロス徴収文書』(一六一七年)に豊前小倉藩には、小倉に三十一人と中津に十七人いたとある。多くは忠利の上級家臣である。松野半斎(大友宗麟三男)や加賀山隼人、志賀志門などの名があり、慶長十九年(一六一四)の忠興時代に転宗した家臣の多くがキリシタンに立ち返っていた(キリシタンに戻る)ことの証明である。