津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■岳の御所って何処・・

2020-03-18 13:40:56 | 熊本
 熊本に於ける北朝・南朝の戦は、託麻が原戦(永和四年・1378)で南朝が奇跡の勝利を遂げた後は、今川了俊が巻き返しを図って翌年8月には、反転攻撃に出ている。南朝軍を兵粮責めにすべく、作付けを不可能にするという作戦に出た。
永徳元年(1381)に至ると菊池氏の隈部城も陥落、菊池武朝は征西将軍を護って金峰山山中に入った。
かっての芳野村に嶽(岳)という集落があるが、ここに「岳の御所」があったと伝えられる。阿蘇家文書・中山右隆文書に「たけの御所奉行人」を勤めたとある。
この場所がどこにあったのか肥後国誌にも記載はなく、幻の「御所」ともいえる。
ただし、「岳の御所」は、一時期をすごす仮寓であったことは、ゆうに想像できる。
肥後国誌には「征西将軍、山ノ西、松尾、平山ノ方ヨリ、始テ金峰山ニ登臨ノ道ヲ開キ給フ所ヲ将軍越ト云」と記す。
つまり、宇土・八代方面に南下を余儀なくされた南朝軍の逃走の為の道ともいえる。
大将陣という地名も残っているようだが、まさしく南朝軍の主力が集結していたのだろう。
南北朝の合一に至るまで、南朝軍の逃避行がつづく。

「岳の御所」「将軍越」「大将陣」などいろいろ調べたいと思うが、図書館が閉館では如何ともしがたい。
我が師匠・高田先生もその編著「平成肥後国誌」では全く触れておられない。資料が見えないのか・・・

WEBで検索してもかすりもしない。運転免許を失効させたので、現地を訪ねる事も出来ない。
コメント (3)
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■うれしさも半分

2020-03-18 10:43:11 | 徒然

                                                                

 毎年のことですが、自衛隊・西部方面総監部正門左方向の4本目のこの桜は、数百メートルに及ぶ桜並木に先駆けて一番に花を咲かせます。
ピンクと云うよりも白に近い色の花で、この樹だけ種類が違うのでしょう。

他の木はあと3~4日といったところでしょうか。
ここは熊本有数の桜の名所で毎年交通規制がかかるほどの人出がある処ですが、今年はうれしさも半分といったところで、花見客も少ないことでしょう。
熊本ではコロナ感染者の数も増えることはなく、落ち着いていますが、やはり人出の多いところは敬遠してしまいます。
精々毎日の散歩で花見をすることにいたしましょう。

 史談会の例会(21日)の出席状況を心配していましたが、まずは順調に「出席」のハガキが帰ってきています。
中にはいろんな会合が休みとなる中「休会の多い中有難いです」という御返事も有り、大いに勇気づけられています。
当日は桜の開花予想日、会場の窓越しに熊本城の桜を拝見することにしましょう。

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■秘史・阿部一族(1)

2020-03-18 07:59:49 | 論考

            秘史『阿部一族』

                          小倉藩葡萄酒研究会 小川研次

■プロローグ

   山村与右衛門は宇佐郡山村の惣庄屋だったが、コンフラリア(信心の組)の代表者の一人であり、信徒の葬儀や洗礼、また神父の手配など行っていた。
慶長十八年(一六一三)十二月十九日の幕府による禁教令以降は、藩主細川忠興はキリシタン穿鑿を強めていた。多くの信徒が人望のある与右衛門に頼っていった。
後の元和八年(一六二二)の『小倉藩人畜改帳』には、山村村民一五八人の内九十三人もの「身内」を抱え、藩内では突出している人数である。大惣庄屋である。
それは家族も含めて全員キリシタンであった。山村の惣庄屋は、まるで「教会」の様相だった。
嫡子弥一右衛門もしっかりと父を支えていたが、将来、大きな運命を背負うことになる。
慶長十九年(一六一四)、忠興の強制転宗により、宇佐郡の仏教への転宗者は藩内最大の人口(二一,八三八人・元和八年)にもかかわらず、わずか五名だが、それは寧ろコンフラリアの組織運営がしっかりと機能している証である。
最も慎重にならなければならないことは、宇佐郡は豊後との国境にあり、潜伏した神父らを安全に要所に運ぶことだった。
特に忠興が教会の破却や転宗政策の徹底化を図った慶長九年(一六一四)から忠利が元和七年(一六二一)六月二十三日に小倉城に入るまでの七年間は小倉は厳しい監視下に置かれていた。
当然、この間はガラシャ夫人のミサなどは不可能であった。忠利の居城中津城で行われていたと推考する。
忠利小倉城入城以降は、直ちにガラシャ菩提寺秀林院(現・北九州市立医療センター)を建立している。そもそも、慶長十七年(一六一二)以降、忠興はガラシャのための教会を破却しているにも関わらず、菩提寺を建立していない。『綿考輯録』に位牌を南蛮寺(教会)から浄土宗極楽寺(現・廃寺 HIS北九州支店辺り)へ移したとあるが、忠利建立まで、その寺で法事が行われていたのか。

禁教令発令(一六一四年)の翌年からのイエズス会記録を見てみよう。
「豊後にいる司祭たちは豊前の国まで足を延ばしており、特に豊前の国の中心都市である小倉の市(まち)にも足を運んでいる。市の城門の上から見張っている警備員(の眼)をはばかって、夜、変装してからでなければ市に入らない。この地のキリシタンは(迫害という)この試練にも見事に耐えている。」(『一六一五、一六一六年度イエズス会日本年報』)

豊後から宇佐郡、中津、そして小倉へ、「市の城門」は中津口である。「夜、変装して」とは、外国人司祭であり、当時、豊後にいたのはペドロ・パウロ・ナバロとフランシスコ・ボルドリーである。
また、中浦ジュリアン神父も藩内に潜伏していたが、彼の言葉と思われる記録も残されている。
「私は一年間に三度、小倉に行きました。それも辛い苦労をし、明らかに生命にかかわるような危険を冒しながら夜を日に継いで歩いたのです。豊後へは二度行きました。そして、各地で大勢の人々の告白を聴きました。しかし、そこで私が滞在していた家から殆ど外へは出ませんでした。なぜなら、それらの町々で私を匿ってくれた人々が ―彼らはそれぞれの町で重立った人々でした。―私に外出することを許さなかったからです。」(同上)

ここから見えてくる「滞在」先は宿主であるコンフラリアの代表者宅である。『コーロス徴収文書』(一六一七年)に豊前小倉藩には、小倉に三十一人と中津に十七人いたとある。多くは忠利の上級家臣である。松野半斎(大友宗麟三男)や加賀山隼人、志賀志門などの名があり、慶長十九年(一六一四)の忠興時代に転宗した家臣の多くがキリシタンに立ち返っていた(キリシタンに戻る)ことの証明である。

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■細川小倉藩(180)寛永三年・日帳(十二月廿二・廿三日)

2020-03-18 06:48:32 | 細川家譜

               (寛永三年十ニ月)廿ニ・廿三日

         |       
         |    廿二日
         |
忠利放鷹     |一、今朝、御鷹野ニ被成御座候事、
年貢米借米皆済催 |一、御年貢米・御借米方御皆済之延引之儀ニ付、御郡/\へ御使ニ遣候歩之御小姓衆
促ノ使      |
         |一、田川ヘハ    梅田半兵衛
         |     マ)
         |一、中津郡     渡部加太夫
         |一、築城・上毛ヘハ 松村四郎兵衛     
         |一、下毛郡ヘハ   速見長三郎
         |         (ママ)
         |一、宇佐ヘハ
         |         (ママ)
         |一、国東ヘハ
蔵奉行貸付ノおり |一、おりもめん拾四端、佐分利兵太夫与中ニ、当九月ニ吉用忠右衛門ゟかり申由、但、壱端ハ代壱斗
木綿代米未済   |  三升、残分ハ一たんニ付、壱斗八升宛ニ仕候へ共、代米于今不相済由、見浦勘兵衛書上候事、
規矩郡鶴打札   |一、有馬七左衛門、明日ゟ、当郡ニ靏打ニ被成御出候、 御印ハ権佐ゟうけ取申由事、
京ニテ地鶴高麗鶴 |一、京ニテ、地鶴五つ、又かうらい五つ買下候へと、深野左介ゟ、京衆へ之さしかミ上せ被申候事、
購入ノ命     |

         |         (国遠)       
         |    廿三日 道倫
         |
         |  (蟹  喰)
牢番後家ノ遺物ニ |一、かにはミニて、後家上申刀、被為差にくき所御座候間、刀ハ御返シ被成、新銭拾貫文被遣候ニ
進上セシ刀ヲ返ス |  付、林弥五左衛門方ニ刀ヲ渡、銭ヲうけ取候へと、可被申渡由申候事、彼女ノ男ハ、御先代ニ御
         |  籠番被 仰付ものゝ由、御暇を被遣、宿ニい申候而相果申由候、
規矩郡蔵納皆済目 |一、規矩郡御蔵納御皆済の目録、小崎與次兵衛被持登候事、
録ヲ郡奉行持参ス |
         |                               はたと
魚住木工允困窮ス |一、谷主膳殿・筑紫大膳殿御登城候而、被仰候ハ、魚住木工允手前不罷成候間、御次手も有之ハ、
         |          (ママ)
         |  立 御耳候様ニとの被申候事、
         |                 (長氏)
平野八十郎家臣ノ |一、平野八十郎殿下々切米ノ儀、平野九郎右衛門ニ談合仕、可相渡旨、前廉被 仰出候付、切米ノ銀
切米ノ銀子請取切 |  子請取切手被差上候事、
手        |
金ノ銚子提秤目相 |一、金ノ御てうし・ひさけ被仰付ニより、御奉行佐分利彦右衛門・釘本三太郎ニて御座候ニ付処ニ、
違        |                                         〃 
         |                                           (ママ)
         |  右ノひさけいまた出来不仕已前ニ、釘本三太郎やとへ持被参候、就夫、はかりめへり申由、御し
         |  ろかねや申候由、御横目ノ渡長右衛門申候、かやうの儀はいかゝ可有御座候哉と■申候間、やと
         |  へもち被参候とても、ちかひの事ハ有間敷候間、其分ニてとをし可被申由、申渡候事、
         |                                       (山田)
三斎へ進上ノ糠味 |一、東兵介、中津へぬかミそ持せ被遣、則 御返書を取、今日被罷帰候、又勘左衛門・七左衛門御請
噌        |  も持参仕候事、
蔵子ノ詮索    |一、御蔵子四人之手前、西沢文右衛門・町市丞・瀬崎猪右衛門・高田角左衛門今日さんさく被仕候
         |  事、
中津小倉間海茸ナ |一、白井兵助登城被仕候而、被申候ハ、中津ゟ小倉迄ノ間ニ、ごミあさく御座候而、うミたけム御座
シ        |        (米田是季)
         |  候、委敷御請監物様ニ申上由候事、
         |

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