菊池市から山鹿市へ至る県道の中間地点あたりに、台(うてな)という字の地がある。小高い丘陵地がありこれが菊池十八外城の一つ「台城」である。「水島城」とも呼ぶ。木野川・内田川にかこまれた場所である。
南北朝末期九州探題に就任した今川了俊が、南朝の征西将軍と菊池軍を討つべくこの地に駒を進めた。
大友・島津・少貮氏などを糾合して一気に菊池城を攻めようとしたが少貮氏が駆けつける気配がない。
了俊は大友・島津を頼み少貮氏を呼び寄せるが、了俊はこれをだまし討ちして殺害する。これに怒った大友・島津勢は軍勢を引き上げる。そういう状況の中で戦いが行われたのが「水島(台)の戦」と呼ばれるものである。
若干13歳の菊池賀々丸(武朝)がこれら20,000ともいわれる大軍を撃退したことで知られる。