津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■原文に触れる「志方半兵衛言上之覚」(20)

2020-03-17 17:32:16 | 細川家譜

         

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■路傍の春

2020-03-17 13:49:19 | 徒然

           

               高さ3センチほどの実生の楓を4・5本見つけました。
               分離帯の植え込みの中ですが、右側の根は高さ4~5mの親の木です。

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■「阿部一族」の一考察(3・了)

2020-03-17 06:57:03 | 論考

コンフラリア

「聖職者らは秘跡以上にキリシタンたちの心を強める手段を見出した。それは適当な時期を選んで行われる信心の組であった。(中略) 聖職者不在の折には、このような組において、必要に応じて赤ん坊に洗礼を施したり、病人を見舞ったり、病人に危機が迫っている時は聖職者を呼んだり、死者を埋葬したり、必要に応じて施し物を配分したりといった活動が、特に、主の教えを守ったために追放されたため人々のために行われた。」(イエズス会『一六一五、一六年度・日本年報』)

この信心の組がコンフラリアである。やがて集落や村ごとに組ができるが、それらを地域別に統括する責任者を必要となってきた。
イエズス会は元和三年(一六一七)に重要な決定をする。イエズス会司祭の不在に備えて地域別にコンフラリアの代表者(司祭の補助人)を定めたのだ。

小倉三十一名、中津十七名から文書に自筆署名を受けている。当然、この文書は最高機密文書である。(『近世初期日本関係南蛮史料の研究』「イエズス会士コーロス徴収文書」松田毅一)
マテウス・コーロスはイエズス会日本管区長であった。天正十八年(一五九〇)、天正遣欧少年使節の帰国と同時に来日した。

小倉では「松野はんた理庵」(親盛パンタリアン)、「加賀山了五」(隼人ディエゴ)、「小笠原寿庵」(ジョアン)、「清田志門」(シモン)の名もあり、中津には「志賀ビセンテ」(市左衛門)、「魚住たい里やう」(藤三郎?)、「川井寿庵」などがいた。選ばれたのは武士階級や地元の有力者である。
このことは小倉のみならず、中津が重要なキリシタン地区の拠点であったことの証明である。当然、忠利は認識していたと思われる。
文書には当時宇佐郡郡奉行だった宗像清兵衛の名はないが、時代が下って奇妙な事件が起きる。
寛永十三年(一六三六)七月八日に忠利から清兵衛は切腹を言いつけられたのだ。
これは多くのキリシタン家臣(主に旧大友家臣)が仏教徒に転宗するための証文(転び証文)を提出する七月十三日の五日前である。何があったのだろう。キリシタンとの関連を考えざるを得ない。転宗を拒否したための処置なのか。

また、清兵衛は転宗する松野右京正照の組に属していたこともあり、同じ豊後出身であろう。
後述の郡奉行上田忠左衛門も失脚し、宇佐郡には深い闇が漂っていた。

黒田官兵衛と宇佐郡

 天正十五年(一五八七)に黒田官兵衛は九州平定の功として豊臣秀吉より豊前六郡(京都、仲津、築上、上毛、下毛、宇佐)十二万石を拝領した。
キリシタン大名官兵衛は領内のキリスト教布教を認めており、細川入封前にはすでに多くのキリシタンがいたと考えられる。
文禄の役(一五九二~)の最中、一番隊隊長のキリシタン大名小西行長の招きにより、イエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父が朝鮮に渡った。忠興の室ガラシャ夫人を洗礼に導いた神父である。

行長の熊川倭城に日本人修道士レオ・コファンと滞在していたが、官兵衛と嫡男長政の強い要請により機張城に向かった。十五日間の滞在の際に彼らや家臣らに説教したり、告白を受けたりし、また家臣らに洗礼を施した。敬虔なキリシタン官兵衛は後日、再び修道士を呼んだ程であった。(『グレゴリオ・デ・セスペデス』朴哲著)そして、セスペデス神父の帰国後の興味深い報告があるが、神父の手によるものではなく、長崎にいたルイス・フロイス神父が聴き及んで書いたと考えられる。(一五九六年十二月十三日付 長崎発信)

『一五九六年イエズス会日本年報』に「ある司祭が一人の修道士とともに朝鮮に行っていた時、たまたまキリシタンたちを訪れたことがあるが、その際に彼は宇佐宮という領国で主要な神社の祭司職をしていた時枝という名の豊後(豊前の間違い)の高貴な神官に会った。」そして「長い議論をしたが、ついに道理ある効力に負け、朝鮮で真理と完全さを認めて福音の法を納得した。」とある。
これは、セスペデス神父と修道士レオ・コファンであり、官兵衛所領の宇佐郡である。

時枝氏は宇佐神宮弥勒寺の寺務を務めた家柄である。(当時は神仏習合) しかし、「時枝」は誰だろう。
官兵衛と共に朝鮮に渡っていた「時枝」は「神官」の身であっても武将であったはずである。史料がないが、それは官兵衛家臣の時枝鎮継(しげつぐ)本人又は身内の者と考えられる。

「朝鮮でこの人物に説教した同じ修道士が彼の郷里(宇佐)を通過した時、この(神官)は彼に会えたことを非常に喜び、しきりに幾度も懇願して自分は家族全員でキリシタン宗門を受け入れることを考えているので、しばらくそこに滞在するようにと頼んだ。そこで修道士は滞在し、二、三ヶ月足らずでこの者の妻は、他の二十人の人々と一緒に洗礼を授かりキリストの教会に入った。」
その後、鎮継は慶長五年(一六〇〇)に官兵衛に従い筑前国に移ることになるが、官兵衛はセスペデス神父を中津城下に住まわせていたことからも、鎮継もキリシタンだった可能性は大いにある。このように宇佐郡では布教が進んでいた。

細川忠興

 慶長五年(一六〇〇)の官兵衛転封後、六郡に規矩、田川、速見、国東が加増された細川忠興は中津城に入るのだが、セスペデス神父が領地に留まることを日本布教長ニェッキ・ソルド・オルガンティーノに懇願した。
ガラシャ夫人の霊的指導者である神父による夫人の御霊の救済のためだった。
慶長七年(一六〇二)に忠興は本拠地を中津から小倉に移すのだが、教会を建ててキリシタンへの理解を示し、妻ガラシャのために盛大な追悼ミサを挙行していた。
小倉の住民およそ六千人の内、二千人以上の信者がいたとされる。(『日本年報』)
しかし、セスペデス神父の死後(一六一一)、その姿勢を一変させた。背景には徳川幕府によるキリシタン禁教令(一六一二、一六一四)によるものだった。外様大名として忖度せざるを得なかったのだろう。
慶長十八年十二月十九日(一六一四年一月二十八日)、幕府の禁教令が発令されると江戸にいた忠興は国元へ「耶蘇宗門堅禁止之旨」の書を送り、領内のキリシタンに対し転宗を強制した。
家臣以外の信徒は惣庄屋を通してキリシタンの道具や転び証文を提出しなければならなかった。

『御国中伴天連門徒御改之一紙目録』(松井家文書)によれば、転宗者は藩内全体で二、〇四七人(奉公人一〇五人、農民・町人一、九四二人)だが、最も多いのは速見郡(特に由布院)で九三四人で最も少ないのが隣接している宇佐郡の五人である。(『大分県史近世篇II』)

元和八年(一六二二)の『小倉藩人畜改帳』によると、人口は速見郡で六、四四〇人に対して宇佐郡は二一、八三八人とあり藩内最大の人口であるが、五人とは、非常にアンバランスである。宇佐郡には大友時代からパンタリアン田原親盛(のちの松野姓)や「時枝」一族がおり、布教はかなり広がっていたはずだ。つまり多くのキリシタンが潜伏していたと思われる。また、宇佐郡山本村(一六一人)の惣庄屋山本少左衛門の名もあるが、この人物も不可解な事件を起こすことになる。

寛永二年(一六二五)に宇佐郡の郡奉行上田忠左衛門と少左衛門の間で紛争があり、翌年に忠利の御前にて裁判があった。少左衛門は火炙りの刑となり、忠左衛門は籠から出されたが、奉行は解任された。(『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』後藤典子著)
火炙りとは極刑中の極刑である。何があったのだろうか。
実は郡奉行だった上田忠左衛門は葡萄酒造りをすることになる上田太郎右衛門の実兄である。
事件の二年前の元和九年(一六二三)に忠利は忠左衛門の息子忠蔵へ石などを引く「万力」の仕入れと技術を平戸にいる「叔父」から習得するように命じた。
熊本大学は「叔父」を上田太郎右衛門としたが、このことは別に論じることにする。(『永青文庫研究 創刊号』小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景)

細川忠利

 慶長九年(一六〇四)、忠興は三男忠利を嫡子とした。次男興秋は証人差替え(人質の忠利と)のために江戸に向かったが、不服とし出奔した。中津城に入った忠利は城下にキリシタンのために教会を建て、セスペデス神父を初代教会長とし布教拡大に協力した。
城のある下毛郡のかつての郡奉行はキリシタン柱石の加賀山隼人であった。下毛郡の十四人の惣庄屋のうちに十二人がキリシタンであったという。しかし、慶長十九年(一六一四)に百二十七人(人口八五〇七人)の転宗者を出している。(『大分県史』近世篇II「下毛郡伴天連門徒御改帳」松井文書)
惣庄屋の一人蠣瀬新五兵衛は元和三年(一六一七)の『イエズス会士コーロス徴収文書』に中津のキリシタン代表者の一人として「蠣瀬自庵」としての名がある。すぐに立ち返り、信徒らをまとめていたのだろう。この時期は忠利は中津城にいて、容認していたと考えられる。

それは、一六一一年の『イエズス会日本報告集』に忠利の言葉により明らかにされる。
セスペデス神父の死後、キリシタン保護から一変した忠興に小倉から追放された伊東マンショへの言葉である。

「私の魂は聖なる信仰の同じ流れにの中にあり、それが報われないのは遺憾である。自ら(司祭)の判断で、来たい時はにはいつでもキリシタンを訪ねられるように許可し、将来についても大きな希望を与える。」

元和七年(一六二一)正月に忠利は隠居した忠興から家督相続した。それに伴い忠興は中津城へ、忠利は小倉城に入ることなった。(六月二十三日)
一六一二年以降、度重なる幕府の禁教令にもかかわらず、忠利はキリシタンへの姿勢は変わらない。特に以下の記録は忠利が小倉城へ移って三年後であり、貴重である。
「長岡越中殿の子細川越中殿(忠利)は、その父とは大いに違い、宣教師に対して非常に心を寄せ、母ガラシヤの思い出を忘れないでいることを示した。」(『日本切支丹宗門史』一六二四年の条)
この事は宣教師を小倉へ招き、母ガラシャの記念ミサを挙行していたことを物語っている。場所は秀林院(現・北九州市立医療センター)、肥後熊本転封まで毎年続いていたと推考する。
寛永九年(一六三二)五月二十九日、肥後熊本の加藤家が改易された。原因は加藤忠広の嫡子光広の将軍家への謀反の嫌疑である。江戸では、加藤家改易後の肥後国に忠利転封の噂が起きていた。

七月十一日の忠興書状に「江戸では、その方に肥後国を与えられるとうのは、いよいよ決定したように噂されている。」また「その方が大大名になるのを、生きているうちに見ることができるのは、たいへん嬉しい。」とある。(『江戸城の宮廷政治』山本博文著)
寛永九年(一六三二)十月四日、忠利は将軍家光から肥後国への国替えを命じられた。

 さて、先述した山村弥一右衛門への惣庄屋から家臣取立ての忠利『奉書』の日付は九月十一日である。転封決定前だが、忠利は肥後国転封を前提として弥一右衛門を召抱えたと考えられる。この時代は豊臣秀吉時代から転封先に農民を連れて行くのは御法度であり、農民身分である惣庄屋も同じである。唯一、武士だけ連れて行くことができた。それ故に弥一右衛門を「武士」身分にしたのだ。それは「別之御用」が重要であったからだ。
「惣庄屋としての五十石に五十石を加増し、百石とし、そこから三十石程を惣領のせがれに当てて、代を譲り、「別之御用」で弥一右衛門を召し抱える」(『森鷗外「阿部一族」―その背景―』)
十二月六日、忠利は「キリシタン」家臣と共に、小倉を立った。

 

                                (第一部・「阿部一族」の一考察は完了しました。次回からは秘史・阿部一族をご紹介します。お楽しみに)

 

 

 

 

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■細川小倉藩(179)寛永三年・日帳(十二月廿一日)

2020-03-17 06:36:06 | 細川家譜

               (寛永三年十ニ月)廿一日

         |        (米田是友)                                  
         |    廿一日 甚左衛門
         |

         |             (ママ)
         |一、江戸への御飛脚御鉄炮衆
         |                                    (長沢顕長室、沼田清延女)
宗珠院へ伊与ヨリ |一、右ノてつほう衆を乗上り候御船頭、小早の田中作兵衛也、そうしゅいん殿へ、いよ殿ゟノしふか
ノ渋紙包     |               (黒印、印文不詳)
         |  ミ包壱つ、うけ取上り申候、〇
         |今月十日ノかりノ由                                                (遠坂)
蔵奉行貸米    |一、米弐斗三升弐合七勺五才                       越後内
         |                                      大村掃ア
         |    右ハ、吉用忠右衛門ゟかり候由也、
光直ヘノ宇佐宮守 |一、江戸へノ御飛脚、井門亀右衛門与柳田八郎右衛門、杉山藤兵衛与ノ藤田三右衛門二 御書幷 御
         |                           (松井興長)    (松井友好)    (三淵重政)
札        |  六様へ上ルうさゟノ御札守、我等共ゟノ京・江戸へ之状式ア殿・■■■宇右衛門殿・右馬助殿
         |  ゟも江戸へ之状共何も渡候事、
         |   〃
         |
         |当七月にかり四わり
藤田弥兵衛口入ノ |一、米元五斗                               須崎久左衛門
貸米       |   右ハ、藤田弥兵衛口入ノ由
         |但、当御切米幷来御借米ノ残之由
蔵奉行ヨリ貸米ノ |一、米弐石壱斗一升三合                          中村新左衛門
差引       |      (吉用)    (坪井) 
         |   右ハ、忠右衛門・五郎太夫とさし引在之由ノ書物一枚、被差上候事、
         |一、成田與平次儀、病死仕由、立 御耳候事、
求菩提山ヨリ光尚 |  求菩提山中ノ坊ゟ、 御六様御札守上ヶ被申候事、則中坊持参被仕候事、
ノ札守      |
         |  (ママ)
         |当春ノかし由、元
春借米      |一、米壱石五斗 五わり米                         八木吉右衛門
         |   壱石五斗五升返弁仕由、併うけ取切手不取由、〆壱石于今おい申由、
         |寛三
蔵子貸米     |一、四匁三リン元 三わり                         上野太郎兵衛
         |   右ハ、御蔵子ノ源右衛門かし、
         |
吉用貸木綿    |一、木わた壱斗                              門司源兵衛
         |   右ハ、吉用忠右衛門かし、
         |
         |   (延俊)
木下延俊ヘノ返書 |一、木下右衛門様へ之 御返書出申候、又しぶかミ包弐つ出申候、上したニ不成様ニ持可申由ニて、
         |  (小笠原長良)
         |  宮内少殿被持出候事を、則歩ノ御小性渡辺五左衛門・新や與左衛門所へ持せ被参、御飛脚ニ被相
         |          〃
         |  渡候事、
割合 上方ノ双場 |  上方ノ双場ニうんちんを加候ヘハ、上方と同前之儀ニ候間、如此可然由、其上御郡中へ被成御借
         |                               (栗野)  (松本)  (深野) (浅川)  
惣談       |  候御銀子を被 召上、其代米を被遣ニ付、右ノ惣談仕候人数、伝介・彦進・新介・清右衛門・
         |      (田中氏次)       (米田是友)
         |  與左衛門、御横目甚左衛門惣談ノ上、如此定申候事、
         |  (曽根、規矩郡)
曽根ノ鶴     |一、そねノ源兵衛靏壱つ打、持参申候事、
         | 

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