時折電話をしてくる悪友がメールを入れてきた。「お前の携帯つながらないぞ~、金払ったか~」
後の方は余計な事だが、電源が落ちてしまっていた。
メールの内容といえば、176回をすぎた「細川小倉藩」の日帳についてだ。
手っとり早い話が、「何のためにやってる?、ご苦労なこったい」という話である。
「大きなお世話だ」とメールに書いた。ご苦労な事は百も承知でやっている。
原本「福岡県史 近世史料編・細川小倉藩」は三巻あるが、図書館に出かけて閲覧しても、個人の情報を引き出せるのは至難の業である。
WEBの世界だと、調べたい文言を入れて検索すれば立ちどころに関係する文章に誘導される。
目的はただそれだけである。
過日、数年ぶりにT様からご連絡をいただいた。ご自分の御先祖様の記録が当ブログから見つかったというご連絡である。
まったく承知していなかった事柄であり感激したとのご一報である。
こういうご連絡をいただくと続ける意欲が湧くというものである。
先の悪友曰く「細川家」に関することを検索すると、必ずお前のサイトに誘導される、「まったく面白くない」という。
穏やかに「全く申し訳ない」と書き送った。
現在ヤフオクに出品されている模写だとされる永(長)尾武左衛門に関する二つの文書が興味深い。
上は正保貮年と思われる、光尚公の宛行状。下は寛永十一年の宛行状だが、細川家の物ではない。
光晟という名前および知行地名からから察するに、安芸広島藩のものである。藩主は浅野光晟である。
上の文書は「長尾」、下の文書は「永尾」とあるが、私が持ち合わせる資料では、この人物について全く記録が残されていない。
ブログ内検索を掛けても、名前がヒットすることもない。
察するに安岐広島藩から肥後細川家に仕官替えをした人物であろうことは推察が付くし、家禄も「六百石」の高禄でもあり、記録が見当たらないのが不思議ではある。
絶家したのか、一代限りの御奉公であったのか?。
■菊池十八外城「台城」における戦いは永和元年の事である。その後蜷打の戦で南朝軍は大敗を期すと、舞台は再び熊本へと展開する。
南朝が最後の大勝利を得たのが永和4年の「託麻が原の戦」である。南北朝の合一迄長い戦いがつづく。
正平23年/応安元年(1368)12月:足利義満(11歳)が征夷大将軍に就任する。
建徳元年/応安3年(1370)7月:今川貞世(了俊)が九州探題に任じられる。
建徳2年/応安4年(1371)12月:今川貞世九州入り
文中元年/応安5年(1372)6月:懐良親王、菊池武光等を筑後高良山(福岡県久留米市)から菊池氏本拠の肥後隈部城まで
追い、南朝勢力から大宰府を奪回し、北朝方の拠点となす。
天授元年/永和元年(1375) :水島での会戦に備えて勢力結集をはかり、豊後の大友親世、筑前の少弐冬資、大隅の島津氏久らの来援を乞う。
唯一九州探題と対立し着陣を拒んだ少弐冬資は、島津氏久の仲介で来陣したが、水島の陣において了俊は宴の
最中に冬資を謀殺する。この水島の変により氏久は離反帰国、以降島津氏は了俊の九州経営に抵抗する。
又、大友親世も探題に対して嫌疑を抱き、了俊への支援を止める。
天授3年/永和3年(1377) :菊池武朝・阿蘇惟武ら南朝勢力と肥前蜷打で激突。戦いは北朝方の大勝に終わり、南朝方の阿蘇惟武等有力武
将を多数討ち取った。その後、玉名の臼間野等を平定し隈本城を攻める。
天授4年/永和4年(1378)9月 :今川了俊・同弟仲秋・大内義弘勢が熊本詫麻が原に於いて良成親王(20歳)、菊池武朝(17歳)等と戦い
敗軍となり、河尻の津より筑後に逃る。
弘和元年/永徳元年(1381) :菊池勢の本拠地隈部城を攻め菊池武朝らを追放。
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元中8年/明徳2年(1391) :八代の名和顕興と征西大将軍良成親王を降伏さす。
元中9年/明徳3年(1392) :南北朝合一を機に菊池武朝と和睦し、九州南朝勢力を帰順させて九州平定を果たす。
応永2年(1395)7月 :了俊は上京の命により同年8月に上京し、九州探題を罷免さる。
参考:新・熊本の歴史3「中世」
新熊本市史・通史編 第三巻「中世」
川添昭二著「九州の中世世界」
田中義成著「南北朝時代」
高田泰史著「肥後武将の源流」
ウイキペディア「今川貞世」
(寛永三年十ニ月)十八日
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| 十八日
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蔵子籾ヲ預ク |一、御中間之仁蔵所ニ、御蔵子ノ彦七籾五俵あつけ申由、申上候事、
蔵子ノ貸米 |一、御中間之與左衛門、右ノ彦七手前ゟ米壱斗かり申由、申上候事、
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山越藤左衛門ノ貸 | 山越藤左衛門ゟかり申米之事
米 |一、三斗七升ハ元分 御中間新介与
| 助五郎
|一、五斗ハ元 同与
| 五郎兵衛
| 合八斗七升ハ元、鉉懸斗
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| 同藤左衛門借用申候事
|一、五斗ハ元 御中間仁兵衛与
| 甚太郎
|一、五斗ハ元 同与
| 又七
|一、五斗ハ元 同与
| 助三
|一、五斗ハ元 今度御手伝ニ付申候
| 喜介
馬屋中間ノ口入 | 右ノ米御馬やノ吉六口入
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蔵子彦七ヨリ借用 | 御蔵子ノ彦七米借用申事
米ノ覚書 |一、五斗ハ元 御中間
| 仁介
|一、五斗ハ元 同
| 弥左衛門
|一、五斗ハ元 同
| 八左衛門
蔵手伝貸米 |一、五斗ハ元 今度御蔵子手伝被仰付候
| 喜左衛門
大麦 |一、大麦七升元 御中間
| 新五郎
|一、大麦壱斗五合元 御中間
| 喜介
|寛三ノかり
|一、五斗ハ米元 同
| 勘六
|同
貸銀 |一、五匁ハ銀元 御飼料
| 弥三郎
|寛二ノかり
|一、六匁ハ銀元 御中間
| 市右衛門
|同
大麦 |一、大麦六升ハ元 同
| 同人
|寛永三
|一、壱斗ハ米元 同
| 惣三郎
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真綿ノ代 |寛三秋かい懸りノ由
|一、銀四匁 まわたノ代之由 横田権佐与
| 吉村加介
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御蔵手伝市右衛門 | 右ハ御蔵子手伝市右衛門分
貸米 |
|同四月に借り、
|一、米五升元分 同与加々山権左衛門与
| 〃〃 小池市左衛門
|十一月
大豆 |一、大つ五升元分 同人
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|一、米弐升三升元分 同与
| 中川八右衛門
蔵手伝源左衛門貸 | 右ハ御蔵手伝源左衛門分ノ由
米 |
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|当春かり申候、
蔵手伝市右衛門貸 |一、米弐斗 五わりに付 御鉄炮舟ノ御番
米 | 與右衛門
|元
| 右ハ御蔵伝市右衛門分
|当十月ニかり申由、 横田権佐与ノ家をかり候て
|一、米五升 居候、中国ゟノ 市右衛門
| 牢人ノ由也
|当春かり候由
|一、籾三斗弐升 同人
| 右ノ市右衛門分
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|いつノかし共無之、
蔵奉行口入米 |一、米六斗 元壱石五斗分四わりノ由 樋田鹿介
|同
|一、同六斗 同壱石 原田安右衛門
| (吉用)
| 右ハ忠右衛門・五郎太夫口入米ノ由
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蔵子山越ヨリノ預 | 御蔵子彦七預り申覚
リ米 |一、米十弐俵 彦七分
半櫃 |一、同三俵と半びつ壱つ 山越ノ
| 八兵衛分
| 右之分、御路次ノ太郎八と申もの預り置候を、おそく申上候事めいわくニ存通、書置申候、右ノ
| 分改させ可申候事、
貸米ノ目録引渡 |一、深野新介今日ゟ被相詰候、御目録引渡、見せ申候事、
|寛三十付ニかり 長岡右馬助殿金子喜大夫内ニ、宿ヲ
蔵子一右衛門貸米 |一、米五斗 かりい申ものゝ由、 久六
| 右ハ、御蔵子ノ市右衛門米也、
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蔵奉行口入米 |当七月ニかり、
|一、米三石 山副彦兵衛
| 加藤左兵衛
| 右ハ、吉用忠右衛門口入米之由、
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| (ママ)
|当夏、御代官所かりてかし申由、加兵衛被申候、
蔵奉行口入米 |一、米拾石■余 池上加兵衛
| 右ハ、吉用忠右衛門口入米之由、
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|当三月ニかり、 勘兵衛与
蔵子彦七ノ貸付米 |一、元米五升 御中間藤七
|九月ニかり、 仁兵衛与
|一、元銀弐匁五分 同 弥市
| 右ハ、御蔵子ノ彦七米銀之由也、
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| (安岐)
薩摩難破船ノ漂着 |一、国東郡古市・あき浦両所ニ打寄申破損舟ノ諸道具、今度さつま殿ゟノ御使者山路太郎右衛門殿被
諸道具ヲ国東郡奉 | (猪 膝)
行ヨリ渡ス | 罷帰候ニ、国東ゟいノひさ迄持せ、小林半左衛門被相渡候ニ付、御使者うけ取切手一枚、又不被
請取切手 | 請取船道具ノ書付一枚、合弐枚、本書は小林半左衛門被請取置候、写ハ他国ノ段二入置申候事、
他国ノ段 |
絹幡 |一、藤田弥兵衛きぬはた壱流、田中以得かり置被申、さし出壱つ、
蔵奉行貸米 |一、松本玄古、吉用・坪井手前にて、米弐石五斗かり申由、重而、主切手ふち方にさん用可仕由の書
| 付壱枚、
誅伐サレシ者ノ明 |一、田町ノ四丁目藤左衛門儀、御誅伐被 仰付候、かの藤左衛門家壱間、清水ノ馬場先に在之由、御
家ノ処置 | 町奉行衆ゟ被書上候を、大津留六左衛門ニ渡候事、
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