津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■秘史・阿部一族(2)

2020-03-19 12:53:56 | 論考

 小倉

 元和七年(一六二一)に小倉に入った忠利は、母ガラシャの菩提寺を建立し、キリシタン家臣や潜伏しているコンフラリアの代表者の協力を得て着々と母の御霊の救済を図っていった。
二年後の元和九年(一六二三)四月九日には、忠利は宇佐郡郡奉行上田忠左衛門の息子忠蔵を万力などの購入や技術の習得をするために平戸に行くように命じた。その平戸の窓口担当者が忠左衛門の弟太郎右衛門だった。寛永三年(一六二六)に小倉藩に仕えて葡萄酒を造ることになる。(『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』後藤典子著)
私は忠蔵の受けた真の特命は平戸に潜伏していた中浦ジュリアン神父の保護だったと思う。足の不自由な神父を船で小倉へ搬送したのではないか。

『日本切支丹宗門史』一六二四年の条が二つの重要な記録を伝えている。
「ジュリアノ・デ・中浦神父は、当時、筑前と豊前を訪問中であった。彼は艱難辛苦のためにすっかり衰え、身動きも不自由であり、度々、場所を変えるのに人の腕を借りる有様であった。」
「長岡越中殿の子細川越中殿(忠利)は、その父とは大いに違い、宣教師に対して非常に心を寄せ、母ガラシヤの思い出を忘れないでいることを示した。」

 また、同年同日の元和九年四月九日に忠利は葡萄酒の調達を家臣に依頼する。
神父とミサ用葡萄酒というわけだ。
「長崎買物に参候ものに平蔵相談申、葡萄酒を調候へと、あまきが能候、其段平蔵能存候事 四月九日」(『藩貿易史の研究』武野要子著)

(長崎に買物に行く者に平蔵に相談をして葡萄酒を仕入れるように。甘いのがよろしい。そのことは平蔵がよく知っている。)
「平蔵」は長崎の代官を務めている豪商末次平蔵である。祖父は平戸でフランシスコ・ザビエルの宿主だった木村家だった。父興善が博多商人末次家の養子になり、次男として生まれたのが、平蔵(政直)だった。父子ともにキリシタンであった。(平蔵は棄教) 当時は商品として葡萄酒は流通しておらず、忠利への特別の計らいだった。「あまき」は残糖分が高く、アルコール度数が高いことであり、長期保存に耐えうるということである。

しかし、禁教令下ではキリシタン穿鑿も厳しくなっていった。
「外国人は、長崎に入港する前に、幻獣な取調べを受けなければならないのであった。その乗組員や品物は、ミサ聖祭用の葡萄酒、ロザリオやメダイが有りはせぬかとの懸念から、臨検されなければならなかった。違背する時は、死刑と達せられていた。」(『日本切支丹宗門史』一六二五年の条)

長崎から仕入れていたミサ用の葡萄酒も入手が困難になっていき、上田太郎右衛門(忠左衛門の実弟)の努力によって寛永四年(一六二七)から国産葡萄酒を造ることになった。当初は仲津郡辺りで造っていたが、キリシタンのイメージがあるために警戒して城内で葡萄栽培を始めた。しかし、国産葡萄酒では、直ぐに酸敗するために、長崎からの「あまき」葡萄酒と混ぜることにより保存が可能になった。これをミサに使用することはローマからの承認を得ていた。(『中世思想原典集成』「日本の倫理上の諸問題について」川村信三訳)
寛永二年(一六二五)、郡奉行上田忠左衛門と山本村の惣庄屋山本少左衛門との間で紛争が起きた。
これは、少左衛門が管轄区域が隣接している山村の惣庄屋与右衛門との確執から始まったのではなかろうか。
つまり、少左衛門は山村のキリシタンに関する何らかの証拠を掴んでいて、発覚を恐れた忠左衛門は口封じのために押し込んだのだ。
翌年、忠利の命により、忠左衛門も籠から出されたが、少左衛門は火あぶりとなった。

 肥後国

寛永九年(一六三二)十月四日、忠利は将軍徳川家光から肥後国への国替えを命じられた。五十四万石の大大名である。

同年九月十一日、山村弥一右衛門は忠利から小倉城に呼ばれた。
「弥一右衛門、どうしてもおぬしの力がいるのじゃ」
肥後国で母ガラシャのミサを執行するためにも弥一右衛門が必要だっ.た。
幸い、忠興時代に立ち返った家中の者のようにキリシタンとは知れていない。ここに国替え前に、五十石の農民身分から、後に千百石の家臣に召し上げた大きな理由がある。当時は農民は連れて行くことができなかったので、武士身分にしたのである。また、阿部姓を名乗ることも命じた。
「おぬしに預かってほしいものがある。」
忠利は小さな桐箱を弥一右衛門に渡した。その中には七寸ほどのマリア像が横たわっていた。それは秀林院に置いていたものである。
「母からの形見じゃ」
慶長五年(一六〇〇)七月十七日、大阪玉造の細川邸にて生害した細川ガラシャが侍女の霜へ「内記様(忠利)への御かたみを遣わされ候」(『霜女覚書』正保五年)としたものだった。
「わしは今でも母の温もりを覚えておるのじゃ」
母ガラシャが大阪から長崎にいる霊的指導者グレゴリオ・デ・セスペデス神父(後の小倉教会上長)へ送った書簡の一部を紹介しよう。
「私の三歳になる第二子が危篤状態に瀕し、すでに治癒の見込みがなく、アニマ(魂)を失うことに深く悲しんでおりました。マリア(侍女清原マリア)と相談し、
創造主デウスに委ねることを最良の道年、マリアは密かに洗礼を授けてジョアンと名付けました。子供の病はその日から癒え始め、今では殆ど健康です。」
(天正十五年十一月七日・一五八七年の『イエズス会日本年報』)

この年の第二子興秋は五歳であり、第三子忠利は二歳であるが、「三歳なる第二子」は忠利と考えて間違いないだろう。確かに、その後の記録には「この若い領主は、既に長年、デ・セスペデス神父を城中におき、而も政治的の事故がなかったら、彼は、洗礼を受けたであらう。」(『日本切支丹宗門史』一六三二年の条)とある。しかし、忠利が受けたのは「密かに」授かった幼児洗礼である。間もなく江戸に証人(人質)に出され、中津に入ってからも「政治的の事故」、すなわち「禁教令」がなかったら、忠利は洗礼を受けたであろうとある。しかし、忠利は母ガラシャから、病気のことや洗礼のことも聞き及んでおり、あくまで「密かな」ことだった。それは禁教令下の忠利の行動が如実に表している。
宇佐郡山村に戻った弥一右衛門は父与右衛門に忠利と肥後に随行することを話す。庄屋跡取りや信仰に関する話し合いをした。

「弥一、何も心配なか。殿様に存分に尽くしんしゃい」
中浦ジュリアン神父とトマス良寛も肥後に移ることにした。忠利一行の後に続くことにした。
寛永九年(一六三二)十二月六日、忠利は小倉を立った。
「越中殿(忠利)は、当時、全家族と共に、筑後を経て、肥後に行かねばならなかった。ビエイラ神父は、この行列に出会った。」(『日本切支丹宗門史』一六三二年の条)
忠利一行は途中でセバスチャン・ビエイラ神父(一六三四年殉教)と遭遇している。
一行は秋月街道から陸路肥後を目指した。ビエイラ神父はこの後、大阪近海の船上で捕縛されたところから、小倉から船に乗ったのであろう。
万全の準備だった。しかし、転封直後(数日後)に想定外の事件が起きた。
小倉城下で中浦ジュリアン神父と同宿トマス良寛(天草出身)が捕縛されたのだ。おそらく忠利転封の機をみて報奨金目的の者が入封したばかりの小笠原家に訴えたのだろう。トマス良寛は小倉で火炙りの刑となり、中浦ジュリアンは翌年、長崎で穴吊りの刑で殉教する。

では、肥後ではガラシャのミサは神父不在のために行われなかったのか。
細川藩が肥後に移封して領外貿易の取引に利用した商人に長崎の天野屋藤左衛門がいる。天野屋は忠利依頼の葡萄酒の調達だけでなく、貿易以外の情報である幕府の長崎におけるキリシタンの穿鑿の状況を藩に報告している。(『藩貿易史の研究』武野要子著)
藩の動向と司祭らの情報を入手していたのだ。むしろ長崎は肥後の方が豊前よりも近い。
私は一人の日本人司祭に注目する。マンショ小西である。キリシタン大名小西行長の孫である。母小西マリアと対馬藩主宗義智の子であるが、関ヶ原の戦いで西軍の行長が処刑され、離縁された母と共に長崎へ移ったとされる。
有馬のセミナリオ(イエズス会司祭・修道士育成の初等教育学校)で学んだ後に、慶長十九年(一六一四)のキリシタン追放令により、マカオに渡る。
その時、十四歳のマンショを励ましたのが、一緒にいたペトロ岐部と天正遣欧少年使節の原マルティノだった。
やがて、ポルトガルのコインブラ大学で学び、寛永四年(一六二七)にローマで司祭叙階した。キリシタン迫害の頂点に達していた日本への帰国を強く希望し、寛永九年(一六三二)に十八年ぶりに帰国を果たした。三十二歳の年である。
忠利は天野屋から、そのことを知る。

「日本人のパードレが長崎におらっしゃるとのことです」
「さようか、天野屋。抜かりのないように頼むぞ」
マンショ小西は正保元年(一六四四)に高山右近の旧領音羽(現・茨木市)にて捕縛され、殉教した。帰国からの十二年間の行動は不明だが、祖父行長の旧領であった肥後熊本に旧家臣らもおり、暫くは潜伏していたと考えられる。
領内のキリシタンを訪ねて告解やミサを授けた。高瀬、山鹿、宇土、豊後街道筋まで足を運んでいたことだろう。忠利死後にマンショは豊後街道を経て肥後領鶴崎(現・大分市)から海路で近畿地方へ向かったのではなかろうか。

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■ヤフオクから、幕末激動期の書簡を読んでみる

2020-03-19 10:18:27 | オークション

             a719肉筆書状 酒井雅楽頭 幕閣老中 手紙 和本 古書古文書

                               

                                                                             一筆令啓候
                     公方様益御機嫌能
                     被成御座候間御心易候
                     然者今度松平大和守
                     御政事総裁職江
                     仰付旨
                     御直被 仰含■候条可
                     被存其趣候 恐々謹言

                      十月十二日

                        有馬遠江守 道純   老中
                        牧野備前守 忠恭   
                        井上河内守 正直   
                        板倉周防守 勝静   
                        水野和泉守 忠精   
                        酒井雅樂頭 忠績   大老 

                      稲葉長門守殿

 松平春嶽が政事職総裁を辞任後、空席になっていたものを、松平大和守をもって後任とすることを、京都所司代・稲葉長門守にたいして報告する書簡である。
松平大和守(直克)は、文久3年(1863年)10月11日に就任したとされるから、この書簡はその翌日に発せられたものである。

仰々しい大老・老中の連署が時代のあわただしさを伺わせる。貴重な書簡である。

 

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■ヤフオクを読んでみる

2020-03-19 07:05:12 | オークション

                                                武蔵忍藩主 阿部豊後守正允 書状 《古文書・武家文書・花押・史料・資料》

                                       

                       御状令披見候
                       公方様 大納言様益
                       御機嫌能被成御座
                       恐悦旨尤候将又今度
                       公方様 大納言様拝領物
                       有之重畳難有由得其意候
                       在所至着候而為御礼以
                       使者干鯛一折進上之候
                       以進披露候処一段之仕合候
                       恐々謹言
                            阿部豊後守
                       七月二日    正充(花押)
                         稲葉能登守殿

 この書状、幸いにも阿部豊後守の名前が「正充」(享保元年(1716)生~安永9年(1780)11月24日歿)であることが判る。
阿部豊後守の在世時代に豊後臼杵藩・稲葉家では三代ほどにわたり、当主が若くして次々に亡くなっている。豊後守の西丸老中~老中の時期からすると、この稲葉能登守というのは、第10代藩主・弘通(宝暦2年(1752)7月19日生~文政元年(1818)10月28日歿)であろう。

この時期の公方(将軍)は徳川家治、大納言とは世嗣の徳川家基か、家基は文政元年(1818)10月28日に18歳で亡くなっている。そうだとすると豊後守は西丸老中時代のものと考えられる。
そんな時代背景の中、御暇を頂戴した能登守が帰国後、「干鯛一折」を贈ったことに対し、豊後守が将軍に披露したことを伝える書状である。豊後守が西丸老中に就任した1769年(明和6年)8月18日から、死去する安永9年(1780)11月24日までの10年余の間の書状ということになる。

 

 

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■細川小倉藩(180)寛永三年・日帳(十二月廿四日)

2020-03-19 06:28:01 | 細川家譜

               (寛永三年十ニ月)廿四日

         |         (米田是友)       
         |    廿四日  甚左衛門
         |

         |        皆済              忠利夫人   皆済目録
宇佐郡蔵納忠利蔵 |一、宇佐郡御蔵納〇目録、一昨日差上候、又御上様御蔵納〇今日差上候事、
納皆済目録    |
江戸供ノ願書   |一、岩崎権平、来年江戸御供仕度とのさし出、うけ取候事、
         |一、真鍋少左衛門、はりまゟ今日被罷下候、はりまニ而、御入道様ゟ御小袖弐つ被下由事、
国東蔵納皆済目録 |一、瀬崎左助国東ゟ被罷帰候、御蔵納分ハ、一両日已前ニ、皆済目録差上被申由、御郡奉行被申候
         |  通、幷御借米方ハ、急度万事、左介聞届られ候儀ハ不罷成ニ付、被帰之由、とかく一両日中ニ相
         |  改、跡ゟ御郡奉行衆持参可有由之事、
         |                    あわ様ゟ(蜂須賀忠英
蜂須賀家ヘノ使者 |一、北村次右衛門阿波へ御使ニ被罷候処ニ、ほうあん殿ゟ御道服壱つ、御小袖壱つ、御樽壱つ、御肴
         |                    〃〃〃〃〃〃
         |                    蜂須賀家政)蓬庵
帰着       |  干鯛一折、白米五斗、薪十束被下候由、ほうあん様ゟ銀子弐枚、御樽三つ被下候由、又両日さき
         |   (ママ)
給与ノ品     |  殿とう仕間ニも、御くわし被下候由、被申候事、
築城上毛郡蔵納借 |一、築城・上毛御蔵納・御借米方共ニ、皆済之目録遅上り申ニ付、歩ノ衆松村四郎兵衛さし遣候処
米方皆済目録   |    (塩木)(沢)
         |  ニ、又丞・少兵衛両人ゟ返事ニ、一両日中ニ目録上ヶ可申由也、
         |                                           (不破)
金銚子提打つぶし |一、金ノちやうし・ひさけを打つぶし、なべニ可仕旨、それニ付、右ノ御奉行佐分利彦右衛門ニ、ふ
         |                                        
鍋ニセシム    |  わ太郎吉御横目ニ而、はしめ仕候かさりやも横目ニ成、後ノかさりやニなへをさせ可申由、右御
         |                        (国遠)
職人奉行     |  奉行両人ニ申渡候事、但、なべノ大小なりハ、道倫ニたつねられ候へと、申渡候事、
         |          〃
         |
銀子請取状案   |      請取申銀子之事、 
         |          (大黒)
拾貫目常是包   |    合拾貫目は■■常是包也、                         大黒常是
中津ヘノ用    |   右ハ、中津へ被遣御用ニ、当分かり申候、頓而、上方ゟ下次第、返弁可申所如件、
         |        寛永三年十二月廿四日                 浅山清右衛門
         |          熊谷九郎兵衛殿                  田中與左衛門
         |          続 権 六 殿                   (氏次)
         |  右ノことく、うけ取切手かき候て、右両人ニ遣申候也、
         |
銀子請取渡ノ覚書 |  一、請取申銀子之事、
         |     合拾貫目は常是包也
         |    右ハ、中津へ被遣ニ付、私御使ニ被仰候て付候間、右之銀子請取、罷越申候、中津ニて相渡、
         |                     〃〃
         |    うけ取切手を取、可罷帰候、以上
消去       |     寛三                                         (黒印)
         |      十二月廿四日          猿木何右衛門(花押)〇
         |                      〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
         |  右銀ハ、かろき由ニて被持帰候、左候て、九郎兵衛・権六被請取ニ付、如此けし被申候事、
蔵納借米方皆済目 |一、御蔵納・御借米方皆済目録、遅上り申ニ付、渡辺加太夫差出候処ニ、目録取被来候、御かし方ハ
録        |  (松本)(豊岡)         (加藤)  (栗野)
         |  彦進・甚丞、御蔵納方ハ新兵衛・伝介方へ被相渡候へと申渡、遣候事、
         | 

 

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