小倉
元和七年(一六二一)に小倉に入った忠利は、母ガラシャの菩提寺を建立し、キリシタン家臣や潜伏しているコンフラリアの代表者の協力を得て着々と母の御霊の救済を図っていった。
二年後の元和九年(一六二三)四月九日には、忠利は宇佐郡郡奉行上田忠左衛門の息子忠蔵を万力などの購入や技術の習得をするために平戸に行くように命じた。その平戸の窓口担当者が忠左衛門の弟太郎右衛門だった。寛永三年(一六二六)に小倉藩に仕えて葡萄酒を造ることになる。(『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』後藤典子著)
私は忠蔵の受けた真の特命は平戸に潜伏していた中浦ジュリアン神父の保護だったと思う。足の不自由な神父を船で小倉へ搬送したのではないか。
『日本切支丹宗門史』一六二四年の条が二つの重要な記録を伝えている。
「ジュリアノ・デ・中浦神父は、当時、筑前と豊前を訪問中であった。彼は艱難辛苦のためにすっかり衰え、身動きも不自由であり、度々、場所を変えるのに人の腕を借りる有様であった。」
「長岡越中殿の子細川越中殿(忠利)は、その父とは大いに違い、宣教師に対して非常に心を寄せ、母ガラシヤの思い出を忘れないでいることを示した。」
また、同年同日の元和九年四月九日に忠利は葡萄酒の調達を家臣に依頼する。
神父とミサ用葡萄酒というわけだ。
「長崎買物に参候ものに平蔵相談申、葡萄酒を調候へと、あまきが能候、其段平蔵能存候事 四月九日」(『藩貿易史の研究』武野要子著)
(長崎に買物に行く者に平蔵に相談をして葡萄酒を仕入れるように。甘いのがよろしい。そのことは平蔵がよく知っている。)
「平蔵」は長崎の代官を務めている豪商末次平蔵である。祖父は平戸でフランシスコ・ザビエルの宿主だった木村家だった。父興善が博多商人末次家の養子になり、次男として生まれたのが、平蔵(政直)だった。父子ともにキリシタンであった。(平蔵は棄教) 当時は商品として葡萄酒は流通しておらず、忠利への特別の計らいだった。「あまき」は残糖分が高く、アルコール度数が高いことであり、長期保存に耐えうるということである。
しかし、禁教令下ではキリシタン穿鑿も厳しくなっていった。
「外国人は、長崎に入港する前に、幻獣な取調べを受けなければならないのであった。その乗組員や品物は、ミサ聖祭用の葡萄酒、ロザリオやメダイが有りはせぬかとの懸念から、臨検されなければならなかった。違背する時は、死刑と達せられていた。」(『日本切支丹宗門史』一六二五年の条)
長崎から仕入れていたミサ用の葡萄酒も入手が困難になっていき、上田太郎右衛門(忠左衛門の実弟)の努力によって寛永四年(一六二七)から国産葡萄酒を造ることになった。当初は仲津郡辺りで造っていたが、キリシタンのイメージがあるために警戒して城内で葡萄栽培を始めた。しかし、国産葡萄酒では、直ぐに酸敗するために、長崎からの「あまき」葡萄酒と混ぜることにより保存が可能になった。これをミサに使用することはローマからの承認を得ていた。(『中世思想原典集成』「日本の倫理上の諸問題について」川村信三訳)
寛永二年(一六二五)、郡奉行上田忠左衛門と山本村の惣庄屋山本少左衛門との間で紛争が起きた。
これは、少左衛門が管轄区域が隣接している山村の惣庄屋与右衛門との確執から始まったのではなかろうか。
つまり、少左衛門は山村のキリシタンに関する何らかの証拠を掴んでいて、発覚を恐れた忠左衛門は口封じのために押し込んだのだ。
翌年、忠利の命により、忠左衛門も籠から出されたが、少左衛門は火あぶりとなった。
肥後国
寛永九年(一六三二)十月四日、忠利は将軍徳川家光から肥後国への国替えを命じられた。五十四万石の大大名である。
同年九月十一日、山村弥一右衛門は忠利から小倉城に呼ばれた。
「弥一右衛門、どうしてもおぬしの力がいるのじゃ」
肥後国で母ガラシャのミサを執行するためにも弥一右衛門が必要だっ.た。
幸い、忠興時代に立ち返った家中の者のようにキリシタンとは知れていない。ここに国替え前に、五十石の農民身分から、後に千百石の家臣に召し上げた大きな理由がある。当時は農民は連れて行くことができなかったので、武士身分にしたのである。また、阿部姓を名乗ることも命じた。
「おぬしに預かってほしいものがある。」
忠利は小さな桐箱を弥一右衛門に渡した。その中には七寸ほどのマリア像が横たわっていた。それは秀林院に置いていたものである。
「母からの形見じゃ」
慶長五年(一六〇〇)七月十七日、大阪玉造の細川邸にて生害した細川ガラシャが侍女の霜へ「内記様(忠利)への御かたみを遣わされ候」(『霜女覚書』正保五年)としたものだった。
「わしは今でも母の温もりを覚えておるのじゃ」
母ガラシャが大阪から長崎にいる霊的指導者グレゴリオ・デ・セスペデス神父(後の小倉教会上長)へ送った書簡の一部を紹介しよう。
「私の三歳になる第二子が危篤状態に瀕し、すでに治癒の見込みがなく、アニマ(魂)を失うことに深く悲しんでおりました。マリア(侍女清原マリア)と相談し、
創造主デウスに委ねることを最良の道年、マリアは密かに洗礼を授けてジョアンと名付けました。子供の病はその日から癒え始め、今では殆ど健康です。」
(天正十五年十一月七日・一五八七年の『イエズス会日本年報』)
この年の第二子興秋は五歳であり、第三子忠利は二歳であるが、「三歳なる第二子」は忠利と考えて間違いないだろう。確かに、その後の記録には「この若い領主は、既に長年、デ・セスペデス神父を城中におき、而も政治的の事故がなかったら、彼は、洗礼を受けたであらう。」(『日本切支丹宗門史』一六三二年の条)とある。しかし、忠利が受けたのは「密かに」授かった幼児洗礼である。間もなく江戸に証人(人質)に出され、中津に入ってからも「政治的の事故」、すなわち「禁教令」がなかったら、忠利は洗礼を受けたであろうとある。しかし、忠利は母ガラシャから、病気のことや洗礼のことも聞き及んでおり、あくまで「密かな」ことだった。それは禁教令下の忠利の行動が如実に表している。
宇佐郡山村に戻った弥一右衛門は父与右衛門に忠利と肥後に随行することを話す。庄屋跡取りや信仰に関する話し合いをした。
「弥一、何も心配なか。殿様に存分に尽くしんしゃい」
中浦ジュリアン神父とトマス良寛も肥後に移ることにした。忠利一行の後に続くことにした。
寛永九年(一六三二)十二月六日、忠利は小倉を立った。
「越中殿(忠利)は、当時、全家族と共に、筑後を経て、肥後に行かねばならなかった。ビエイラ神父は、この行列に出会った。」(『日本切支丹宗門史』一六三二年の条)
忠利一行は途中でセバスチャン・ビエイラ神父(一六三四年殉教)と遭遇している。
一行は秋月街道から陸路肥後を目指した。ビエイラ神父はこの後、大阪近海の船上で捕縛されたところから、小倉から船に乗ったのであろう。
万全の準備だった。しかし、転封直後(数日後)に想定外の事件が起きた。
小倉城下で中浦ジュリアン神父と同宿トマス良寛(天草出身)が捕縛されたのだ。おそらく忠利転封の機をみて報奨金目的の者が入封したばかりの小笠原家に訴えたのだろう。トマス良寛は小倉で火炙りの刑となり、中浦ジュリアンは翌年、長崎で穴吊りの刑で殉教する。
では、肥後ではガラシャのミサは神父不在のために行われなかったのか。
細川藩が肥後に移封して領外貿易の取引に利用した商人に長崎の天野屋藤左衛門がいる。天野屋は忠利依頼の葡萄酒の調達だけでなく、貿易以外の情報である幕府の長崎におけるキリシタンの穿鑿の状況を藩に報告している。(『藩貿易史の研究』武野要子著)
藩の動向と司祭らの情報を入手していたのだ。むしろ長崎は肥後の方が豊前よりも近い。
私は一人の日本人司祭に注目する。マンショ小西である。キリシタン大名小西行長の孫である。母小西マリアと対馬藩主宗義智の子であるが、関ヶ原の戦いで西軍の行長が処刑され、離縁された母と共に長崎へ移ったとされる。
有馬のセミナリオ(イエズス会司祭・修道士育成の初等教育学校)で学んだ後に、慶長十九年(一六一四)のキリシタン追放令により、マカオに渡る。
その時、十四歳のマンショを励ましたのが、一緒にいたペトロ岐部と天正遣欧少年使節の原マルティノだった。
やがて、ポルトガルのコインブラ大学で学び、寛永四年(一六二七)にローマで司祭叙階した。キリシタン迫害の頂点に達していた日本への帰国を強く希望し、寛永九年(一六三二)に十八年ぶりに帰国を果たした。三十二歳の年である。
忠利は天野屋から、そのことを知る。
「日本人のパードレが長崎におらっしゃるとのことです」
「さようか、天野屋。抜かりのないように頼むぞ」
マンショ小西は正保元年(一六四四)に高山右近の旧領音羽(現・茨木市)にて捕縛され、殉教した。帰国からの十二年間の行動は不明だが、祖父行長の旧領であった肥後熊本に旧家臣らもおり、暫くは潜伏していたと考えられる。
領内のキリシタンを訪ねて告解やミサを授けた。高瀬、山鹿、宇土、豊後街道筋まで足を運んでいたことだろう。忠利死後にマンショは豊後街道を経て肥後領鶴崎(現・大分市)から海路で近畿地方へ向かったのではなかろうか。