津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■藤崎城と藤崎八崎

2020-03-22 07:53:50 | 熊本史談会

 馬追いが勇壮な例大祭で知られる「藤崎八旙宮」は、「承平5年(935)に朱雀天皇が平将門の乱平定を祈願され、山城国(京都)石清水八幡大神を国家鎮護の神として、茶臼山(今の藤崎台球場)に勧請されたのに始まる。」と社記はしるす古い歴史御持つ神社である。「鎮座の日、勧請の勅使が藤の鞭を3つに折って、3ヵ所に埋めたところ、この地に挿した鞭から、やがて芽が出て枝葉が繁茂したので、藤崎宮の名称が起こったと伝えられている。」ともある。

社記にあるように、以前は熊本城内の藤崎台にあった。
南北朝末期、九州の地は唯一南朝方が優位を保った地であったが、今川貞世(了俊)が九州探題に就任すると状況は一変することになる。度々戦いが繰り返され、北朝方(武家方)の優位が見られるようになる。
熊本に於いても、幾たびも戦がくりかえされる中で、「隈本城に対峙する北朝方の藤崎城」の存在が、「軍忠状」に記された内容から浮かび上がってくる。特定する史料は見当たらないものの、藤崎城はまさに藤崎宮があった藤崎台の地に在ったろう事は、間違いないことであろう。

 昨日の史談会では会員のM氏の貴重な研究成果の発表があり、藤崎という地名の由来や、「雑華錦語集」がしるす「藤崎八崎」についての発表と共に、諸会員のいろんな質問・発言などがあって、誠に有意義な会合となった。
M氏は地元にお住まいになって居り、まさに地元の人ならではの知識が豊かであり、説得力がある。藤崎宮注進に「八崎=藤崎・牧崎・河原崎・榎崎・弥勒崎・御崎・鐘射崎・筆崎」が存在し、夫々は阿蘇山の火砕流で形成された京町台地につづく藤崎台において浸食崩壊により崎(岬)を為していた。
藤崎の地名についてM氏は藤崎宮の社記にそっておられる。一方「藤崎=ふちさき→渕先」とする考えが存在しており、私は後者であろうと考えている。

一方私は「熊本平野の貝塚分布」の図をお示ししたが、いわゆる「縄文海進」は熊本市内のかなり深い部分まで入り込んでいたことが理解できる。熊本城の石垣に用いられた石材は水運をもってこの場所から運び上げられたという。つまり井芹川がこの台地の間直にあった。
往古のこれ等の風景を想像すると、誠に心豊かにさせてくれる。

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■秘史・阿部一族(4‐了)

2020-03-22 06:45:09 | 論考

殉死

即日、最初の殉死者が出た。太田小十郎政信である。享年十八歳。十一歳から忠利の児小姓として仕えた。この死は当時、多くがそうであったように、主人への「義」と「情愛」と考えられる。

一月後にまた小姓内藤長十郎元続(十七歳)が追腹をしたが、忠利が逝去直前に長十郎の申し出に、うなずいたともいわれる。(『綿考輯録』)

四月二十六日、名代堀平左衛門から光尚の追腹禁止が伝えられるが、即日、野田喜兵衛他七名の殉死者を出す。翌日に右田因幡、二十九日に寺本八左衛門が追随した。五月二日に宗像兄弟、六月十九日に田中意徳となるが、阿部弥一右衛門と他の三名の殉死日は不明である。六月十七日に藩から十九名全員に跡式相続の措置がなされているから、それ以前となる。

森鷗外の『阿部一族』では、忠利から追腹禁止を言いつけられた弥一右衛門は、十八人の殉死者がいるにも関わらず、生き続けなければならなかった。
「阿部はお許しのないのを幸に生きとる。お許しはのうても追腹は切れぬことはなか。阿部の腹の皮は人とは違うとる。ひょうたんに油でも塗ってきればよかばい」この「けしからんうわさ」に「そんなら切って見せましょう」となったのだが、これでは「犬死」である。史実は先述の通り、「殉死」となっている。
では、弥一右衛門はいつ追腹をしたのだろうか。
私は忠利が脳卒中の症状が出てから正月二十三日に弥一右衛門の屋敷を訪ねた時に、決心したと考える。そうであれば四月二十六日から、遅くとも寺本と同じ二十九日ではなかろうか。
「殉死」扱いされた弥一右衛門の知行千百石は、嫡子権兵衛九百石(前三百石)と五男左平太二百石(前十人扶持)と相続される。二男市太夫二百石、三男弥五兵衛二百石、四男五太夫二百石は既に知行取りであった。
この段階では、権兵衛の藩への不満はないが、後日の知行変更に納得がいかず狼藉を働くことになるというのが鷗外の『阿部一族』(以降「鷗外書」)である。

狼藉

「狼藉」は忠利三回忌の仏前で起きた。
寛永二十年(一六四三)二月十七日、妙解寺にて、権兵衛は焼香後に脇差を抜いて髻(もとどり)を押し切って、妙解院殿(忠利)の位牌の前に供えたのである。
これは、上述の知行が三百石まで下げられたことに対する抗議の意としている。しかし、熊本大学の吉村豊雄氏はこの記録は後年書き加えられたもので、底本となる『綿考輯録』には記載がないとしている。
では何故に権兵衛は髻を切ったのか。
先君への義を果たすことの意もあるだろうが、光尚体制への決別を意図すると考えられる。又、この時、「目安」(訴状)を添えている。(「細川家日帳」~『森鷗外「阿部一族」―その背景―』) その「目安」に書かれていたことは不明だが、おそらく「切支丹」としての自身の覚悟を書いたものかもしれない。
この事は父弥一右衛門の殉死から二年近く、兄弟で十分に話し合った結果である。
実は権兵衛らは、藩の大目付の林外記(げき)から転宗するように迫られていた。
藩側も先君との繋がりがあり、表沙汰にすることはできない。今更、幕府に知られたら一大事である。
外記は陰湿な目つきで権兵衛に言い放った。
「知行もそのままじゃ。切支丹を棄てんね。よか役をやるばってん」
事実、権兵衛は代官役は外され、使用人召放ちの願い出も却下されており(寛永十八年八月十六日『日帳』)、身辺整理をしていたことも考えられる。(『森鷗外「阿部一族」―その背景―』

覚悟

キリシタンに寛容であった忠利と違い、光尚新体制では、林外記を頭に穿鑿が徹底された。
忠利没後、半年も経たたない寛永十八年(一六四一)八月一日、権兵衛への見せしめのようにキリシタン金川惣左衛門一族が穿鑿され、九月十五日には八人が誅伐された。(『新熊本市史』)

この「金川事件」により、権兵衛も覚悟したのだ。
つまり、キリシタンを棄てないと同時に己一人で阿部家の責任を取る覚悟だった。
権兵衛は病床に伏しているキリシタン柱石だった松野半斎親盛(大友宗麟の三男)を訪ねて、キリシタンとして死ぬことを告げる。半斎は目を閉じたまま、深く頷いた。
屋敷に戻った権兵衛は父がそうであったように弟らと今生最後の一献を交わした。
「おぬしたちは宇佐に戻りなっせい。おいの家族のこつも頼んだぞ」
そして、覚悟した権兵衛は忠利霊前で髻を切る「狼藉」を働いたのである。
「鷗外書」には権兵衛の刑が市中引き回しの上、縛首とされたことに、兄弟らが、せめて武士としての切腹をと抗議したことにより、謀ありとされ、一族討伐となったとある。
しかし、キリシタンとって自死は重罪である。確かに権兵衛の行動は他愛行動ではあるが、この時代は許されなかった。結果、権兵衛の望むところであった。
つまり、真の「殉教」なのである。父弥一右衛門の死はあくまで泉下の忠利への義を体現したものだった。
しかし、権兵衛の首ひとつでは終わらなかった。林外記の策により、女子供も含む一族全員を捕縛し、権兵衛屋敷に閉じ込めたのだ。
「妻子までもがそれぞれの屋敷を出て権兵衛屋敷に移ったのは、そうせざるを得ないような邪悪な情勢が切迫していたからではあるまいか。つまり、阿部一族全体が権兵衛屋敷に引き籠ったのは、藩側によってそのように仕向けられたということもできるのではあるまいか。」(『森鷗外「阿部一族」―その背景―』吉村豊雄著)
私も同意見であり、藩により一所に集められたと考えられ、それはキリシタンを根絶やしにすることが前提であった。つまり「獄屋」化したのである。
一族の運命は明白であるが、「鷗外書」は権兵衛は狼藉直後に縛首となっている。しかし、史実は一族誅伐後である。つまり権兵衛と一族はそれぞれ人質になっていたのだ。
この狼藉から四日間に阿部一族が転ぶこと(転宗)を強制される。
外記は執拗に迫る。
「どうじゃ、権兵衛。一言、転んだと言いなっせ。」権兵衛は首を横に振った。

散りぬべき時

権兵衛屋敷周辺は見張り番が立ち、物々しい雰囲気に包まれていた。
二男市太夫は一族全員に向かって言った。「みなでパライソへ行こうぞ」
女子供たちはすすり泣いていたが、祭壇のガラシャのマリア像に向かいオラショを唱えると、不思議に落ち着いて暖かく包まれるような感覚を感じた。
外記は苛立っていた。阿部屋敷からも何の返事がない。
そして四日後の期限を迎えた。
寛永二十年(一六四三)二月二十一日早朝だった。
外記は吐き捨てるように言った。
「あやつ(権兵衛)一人で終わらせんばい。切支丹を終わらすっとばい」
「せからしか。皆討て、おなごも赤子もじゃ」
「家中には切支丹ばいらんばい」
外記は、阿部一族誅伐隊を既に編成していた。
隊長は竹内数馬であるが阿部家の「身内」とされる。この時、数馬は死を覚悟したという。(『真説・阿部一族』)
馬上の数馬は桜吹雪の中をゆっくりと歩いた。
阿部屋敷正門に着くと唇を噛んだ。采配が空を切った。

静かである。
「数馬が玄関から屋敷に入ろうとすると、兄の八兵衛が阻止するが、数馬は押し入った。その直後に鉄砲により討死した。享年二十一歳だった。」(『真説・阿部一族』)
私は阿部一族は、非武装化され、獄屋化にされた権兵衛屋敷に監禁され、権兵衛の首を担保に転宗を迫ったと考える。外記は数馬も「身内」すなわちキリシタンであることを知っており、成敗されたのではないか。

最後を覚悟した市太夫はマリア像のある祭壇の部屋に入った。母、妻や子供達が肩を寄せ合っていた。抱かれていた子供達は震えながら泣いていた。その手にはコンタツ(ロザリオ)がしっかりと握られていた。
市太夫は十字を切って「さんたまりあ様、ぜすきりしと様」と叫んで祭壇に火を放った。やがて、阿部一族は「ことごとく討ち果たされ、家断絶いたし候」(『綿考輯録』)

私は「獄屋」の一族は、その場で全員斬首されたと考える。

ここに忠利が母への祈りを捧げ続けた「秀林院」は永遠に「停廃」したのである。
権兵衛は白川左岸の「井出ン口」刑場へ連行された。対岸の浄土宗西岸寺の住職が手を合わせていた。
縛首になった首は、一族の首と共にしばらく河原に晒されていた。捨板には「謀反の謀あり」と書かれていた。

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」(細川ガラシャ辞世の句)

エピローグ

慶安二年(一六五〇)十二月二十六日、藩主光尚が三十一歳の若さで逝去。
翌年の七月朔日、大目付林外記が佐藤伝三郎から打ち果たされた。(『日帳』)
理由は不明としているが、その後のお咎めなしとなっている。
忠利寵臣の家老米田是季(これすえ)の命令だったのか。

是季の手にはガラシャのマリア像が横たわっていた。(了)

 

                        参考文献

森鷗外著『阿部一族』
栖本又七郎『阿部茶事談』
藤本千鶴子著『歴史上の「阿部一族」事件』
『綿考輯録』第六巻 第二十六巻
ルイス・フロイス『日本史』
イエズス会『一五八二年の日本報告書』
細川家『日帳』~『福岡県史』近世史料編 細川小倉藩(一)(二)(三) 西日本文化協会 平成二年細川家『日帳』
上妻博之編著 花岡興輝校訂『肥後切支丹史』エルピス 一九八九年
吉村豊雄著『森鷗外「阿部一族」―その背景―』
『小倉藩人畜改帳』
『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』松田毅一監訳 同朋社出版一九八七年
矢島嗣久著『豊後の武将、宗像鎮続、大友吉統の重臣』
イエズス会『一六一五、十六年度・日本年報』
『大内時代の宇佐郡衆と妙見岳城督』北九州市立自然史 二〇〇四年
『新熊本市史』
松田毅一著『近世初期日本関係南蛮史料の研究』~イエズス会士コーロス徴収文書
朴哲著『グレゴリオ・デ・セスペデス』
『大分県史近世篇II』
後藤典子著『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』永青文庫研究創刊号
レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』吉田小五郎訳 岩波文庫 一九三八年
山本博文著『江戸城の宮廷政治』
『中世思想原典集成』~日本の倫理上の諸問題について 川村信三訳
武野要子著『藩貿易史の研究』
木島甚久著『小倉のきりしたん遺跡』
大橋幸秦著『検証島原天草一揆』吉川弘文館
東京大学史料編纂所『大日本近世史料』
『葉隠』
『新熊本市史』
『真説・阿部一族』

 

 

 

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■細川小倉藩(182)寛永三年・日帳(十二月廿六日)

2020-03-22 06:44:20 | 細川小倉藩

               (寛永三年十ニ月)廿六日

         |       
         |    廿六日  
         |

山盗三郡引廻シは |一、大場角右衛門尉、田川ニ而山盗仕ニ付、規矩・京都・中津三郡を引候而、田川へ遣候而、はた者ニ
たものニ懸ク   |                 ( 衍 )                             (か脱)
忰三人誅伐    |  かけ可申旨、被 仰出候、せかれせかれ共ハ三人共ニ誅伐可仕旨ニ付、各右衛門せれ長兵衛をひ
         |  かせ遣候、御郡ハ角右衛門斗を引申候事、
         |  (沼田延之)
茶臼 墨ノ硯   |一、勘解由殿ゟ、下関ニ而、冣前御茶うすを被 仰付、上申候ニ、墨ノ硯を指次申様ニと申候間、其
大森土佐硯    |  段吟味仕候而、可申付旨候間、則金子喜左衛門ニ申渡候、太守土佐ハ、右ノうす仕人数ニ而無之
         |   (ママ)墨か
         |  故、黒之硯上ヶ申候事、
三斎鏡餅ヲ二所へ |一、従 三斎様、御鏡御二所へ御すへ被成御使者志方小兵衛被参候事、御小袖一つ、御使者二被遣
上グ       |  候事、
田川郡蔵納幷給人 |一、田川郡ゟ御蔵納、御給人方共ニ皆済目録弐つ、海田半兵衛被持帰候事、則小頭孫兵衛ニ持せ、彦
方皆済目録    |  ・甚、新兵衛・伝介両所遣候事、
下毛郡蔵納皆済目 |一、下毛郡御蔵納ゟ御皆済目録、新兵衛・伝介両人ニ、使ノもの被由申候事、
録        |
蔵奉行吉用坪井請 |一、吉用忠右衛門・坪井五郎太夫請こミ申麦・米、只今被 仰付御蔵奉行溝口理兵衛・田辺六左衛門
込ノ麦米ノ請渡  |  請込申ニ付、為御横目、手嶋小右衛門・栗野仁右衛門・波多理右衛門、右三人をつけ申候事、
         |  (規矩郡)                                      (三淵之直)
猪喰ノ黒犬預リ  |一、徳光村ノ御百姓長右衛門くろ犬、小崎與次兵衛被引寄候を、長岡左膳殿へ可被相渡由申渡候、
鷹ノ餌犬ニセズ  |  但、此犬ハ御鷹之餌犬ニ出し不申、能可仕置旨、左膳殿奉ニて被 仰出ニ付、左様しめ可被置
         |  由、與次兵衛方へ申渡候処ニ、左膳殿御預り有度由被仰付、右之分ニ候事、
蔵奉行坪井女房隠 |一、坪井五郎太夫女房、銀子を百五十目ちいさききんちやくニ入、今迄はかくし置候へ共、上ヶ申由
匿ノ銀子ヲ差出ス |  ニて、甚丞・伝介方迄、状をそへ被差上候事、
         |一、右ノ女房衆ゟ、又銀子四十二匁ノ■由書付有之銀一包、御番ノものニ持せ、もはや是ゟ外ニハ無
         |  之由ニて、坪井少五郎状をそへ、さし上候事、
         |一、山川惣右衛門与田嶋■藤左衛門、江戸を今月十日ノ申ノ下刻ニたち候て、大坂を同十九日ニ出、
         |           (播磨明石郡)  
         |  日和悪敷御さ候て、明石ノ川ニ四日居申候由候、■此御船頭ハ中津留二左衛門、小早之御船ニ乗
         |                         (光隆)
         |  下候由申候而、両人共ニ登城被仕候事、此便宜ニ小浜民ア少様ゟノ御返事持下、
荷舟加子二百人  |一、御荷舟加子弐百人、舟瀬理兵衛置立申候、然は、今度御加子弐百五十人御扶持を被放候ニ付而、
加子二百五十人扶 |  右之弐百人に前廉ゟノ御加子ヲ五十人相加、都合弐百五十人被放候、然ニ理兵衛申候ハ、御荷
持ヲ放タル    |  舟加子弐百人御切米五石宛にて、御早舟ノ御加子同前ニ御奉公可仕由申候間、御かゝへ可被成
荷舟加子切米五石 |  通、理兵衛申候間、一段御為ニ可然候条、白井兵介・鏡善右衛門両人へ、右之通申渡、前廉ゟノ
ニテノ奉公ヲ願ウ |  加子をも御切米五石宛ニ而罷居候様ニ可仕通、右両人ニ申候、然ニ、両人申候ハ、五石取ノ加子
早舟ノ加子    |  ニ而、 御召舟其外御早舟ヲ乗申候儀申付候事不相成候由申候条、右之段々得 御諚候ヘハ、五
         |  石取ノ御加子を可成所迄置候て申付見可申由、被成 御意候間、其段兵介・善右衛門へ申渡候、
悪キ加子ヲ選ル  |  然ニ両人申候ハ、 御意にて御座候ハヽ、奉得
其意候間、然は、弐百人ノ内、悪敷加子をゑり候
         |  て置可申由申候つる、其段理兵衛ニ申渡候ヘハ、左様ニ御座候ハヽ、加子御ゑらミ候へと申ニ付、
         |  而、兵介・善右衛門ニ申渡シ、■■■有合申加子四十七人御舟ニ乗せ、此内にて能分弐十六人ゑ
         |  り出し申候、然ニ、理兵衛申候ハ、御ゑり候て御置候ハヽ不罷成候、其子細は、右之弐百人ハ
         |  来年壱年罷ゐ、明後年二月二日ニ、御いとまを取申ものにて御座候間、如此ニ能加子をも御ゑり
         |  のけ候ハヽ、かわりの加子を抱申儀不罷成候由、理兵衛申候、兵介・善右衛門申候ハ、能加子と
鼻ソゲ 櫓ヲヨク |  申候やうニ有間敷候、ゑり出し申分ハ何も悪敷候、其内ニはなそけ壱人御座候、是ハろをよくお
押セドモ見苦シ  |  し申候へ共、余見苦敷候間、悪敷内ニ仕候と申候、野田小左衛門申候ハ、はなの少つふれ候もの
鼻ノ少シ潰レシ加 |  をゑりのけ申候、是ハきんミ悪敷由申候、此儀せんさく仕候ヘハ、はなのそけ申儀必定ノ由、理
子ヲ除  本加子 |  兵衛申候、本加子ノ内ニも、悪敷加子御座候ニ、我等かゝへ申候弐百人ノ内斗御ゑり候儀、かつ
         |  てん不参候由、理兵衛申候、又兵介・善右衛門申候ハ、先年ヨリ悪敷加子ハ、ゑらミ候てはなし
年老悪キヲ除ク  |  候へと、 御諚ニ付而、年々ゑらミ候て、年のより悪敷分ハはなし候と申候、此方ゟ申付候ハ、
         |  本加子も、又荷舟加子も悪敷分ハ、兵介・善右衛門見合、御扶持を放申候へと申渡候、又五石通
         |  りニ、本加子をも仕なし申候様ニと、兵介・善右衛門ニ申渡候也、
         |

                 ■野田小左衛門という人  
                   上記発言は、小左衛門自身が目を煩い片方は見えなかったとされるし、又足も悪く
                   馬に乗れずに、此のことについて童どもが囃し立てたという。
                   いわゆる身障者であり、このことを以てのものかと推察する。

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