殉死
即日、最初の殉死者が出た。太田小十郎政信である。享年十八歳。十一歳から忠利の児小姓として仕えた。この死は当時、多くがそうであったように、主人への「義」と「情愛」と考えられる。
一月後にまた小姓内藤長十郎元続(十七歳)が追腹をしたが、忠利が逝去直前に長十郎の申し出に、うなずいたともいわれる。(『綿考輯録』)
四月二十六日、名代堀平左衛門から光尚の追腹禁止が伝えられるが、即日、野田喜兵衛他七名の殉死者を出す。翌日に右田因幡、二十九日に寺本八左衛門が追随した。五月二日に宗像兄弟、六月十九日に田中意徳となるが、阿部弥一右衛門と他の三名の殉死日は不明である。六月十七日に藩から十九名全員に跡式相続の措置がなされているから、それ以前となる。
森鷗外の『阿部一族』では、忠利から追腹禁止を言いつけられた弥一右衛門は、十八人の殉死者がいるにも関わらず、生き続けなければならなかった。
「阿部はお許しのないのを幸に生きとる。お許しはのうても追腹は切れぬことはなか。阿部の腹の皮は人とは違うとる。ひょうたんに油でも塗ってきればよかばい」この「けしからんうわさ」に「そんなら切って見せましょう」となったのだが、これでは「犬死」である。史実は先述の通り、「殉死」となっている。
では、弥一右衛門はいつ追腹をしたのだろうか。
私は忠利が脳卒中の症状が出てから正月二十三日に弥一右衛門の屋敷を訪ねた時に、決心したと考える。そうであれば四月二十六日から、遅くとも寺本と同じ二十九日ではなかろうか。
「殉死」扱いされた弥一右衛門の知行千百石は、嫡子権兵衛九百石(前三百石)と五男左平太二百石(前十人扶持)と相続される。二男市太夫二百石、三男弥五兵衛二百石、四男五太夫二百石は既に知行取りであった。
この段階では、権兵衛の藩への不満はないが、後日の知行変更に納得がいかず狼藉を働くことになるというのが鷗外の『阿部一族』(以降「鷗外書」)である。
狼藉
「狼藉」は忠利三回忌の仏前で起きた。
寛永二十年(一六四三)二月十七日、妙解寺にて、権兵衛は焼香後に脇差を抜いて髻(もとどり)を押し切って、妙解院殿(忠利)の位牌の前に供えたのである。
これは、上述の知行が三百石まで下げられたことに対する抗議の意としている。しかし、熊本大学の吉村豊雄氏はこの記録は後年書き加えられたもので、底本となる『綿考輯録』には記載がないとしている。
では何故に権兵衛は髻を切ったのか。
先君への義を果たすことの意もあるだろうが、光尚体制への決別を意図すると考えられる。又、この時、「目安」(訴状)を添えている。(「細川家日帳」~『森鷗外「阿部一族」―その背景―』) その「目安」に書かれていたことは不明だが、おそらく「切支丹」としての自身の覚悟を書いたものかもしれない。
この事は父弥一右衛門の殉死から二年近く、兄弟で十分に話し合った結果である。
実は権兵衛らは、藩の大目付の林外記(げき)から転宗するように迫られていた。
藩側も先君との繋がりがあり、表沙汰にすることはできない。今更、幕府に知られたら一大事である。
外記は陰湿な目つきで権兵衛に言い放った。
「知行もそのままじゃ。切支丹を棄てんね。よか役をやるばってん」
事実、権兵衛は代官役は外され、使用人召放ちの願い出も却下されており(寛永十八年八月十六日『日帳』)、身辺整理をしていたことも考えられる。(『森鷗外「阿部一族」―その背景―』
覚悟
キリシタンに寛容であった忠利と違い、光尚新体制では、林外記を頭に穿鑿が徹底された。
忠利没後、半年も経たたない寛永十八年(一六四一)八月一日、権兵衛への見せしめのようにキリシタン金川惣左衛門一族が穿鑿され、九月十五日には八人が誅伐された。(『新熊本市史』)
この「金川事件」により、権兵衛も覚悟したのだ。
つまり、キリシタンを棄てないと同時に己一人で阿部家の責任を取る覚悟だった。
権兵衛は病床に伏しているキリシタン柱石だった松野半斎親盛(大友宗麟の三男)を訪ねて、キリシタンとして死ぬことを告げる。半斎は目を閉じたまま、深く頷いた。
屋敷に戻った権兵衛は父がそうであったように弟らと今生最後の一献を交わした。
「おぬしたちは宇佐に戻りなっせい。おいの家族のこつも頼んだぞ」
そして、覚悟した権兵衛は忠利霊前で髻を切る「狼藉」を働いたのである。
「鷗外書」には権兵衛の刑が市中引き回しの上、縛首とされたことに、兄弟らが、せめて武士としての切腹をと抗議したことにより、謀ありとされ、一族討伐となったとある。
しかし、キリシタンとって自死は重罪である。確かに権兵衛の行動は他愛行動ではあるが、この時代は許されなかった。結果、権兵衛の望むところであった。
つまり、真の「殉教」なのである。父弥一右衛門の死はあくまで泉下の忠利への義を体現したものだった。
しかし、権兵衛の首ひとつでは終わらなかった。林外記の策により、女子供も含む一族全員を捕縛し、権兵衛屋敷に閉じ込めたのだ。
「妻子までもがそれぞれの屋敷を出て権兵衛屋敷に移ったのは、そうせざるを得ないような邪悪な情勢が切迫していたからではあるまいか。つまり、阿部一族全体が権兵衛屋敷に引き籠ったのは、藩側によってそのように仕向けられたということもできるのではあるまいか。」(『森鷗外「阿部一族」―その背景―』吉村豊雄著)
私も同意見であり、藩により一所に集められたと考えられ、それはキリシタンを根絶やしにすることが前提であった。つまり「獄屋」化したのである。
一族の運命は明白であるが、「鷗外書」は権兵衛は狼藉直後に縛首となっている。しかし、史実は一族誅伐後である。つまり権兵衛と一族はそれぞれ人質になっていたのだ。
この狼藉から四日間に阿部一族が転ぶこと(転宗)を強制される。
外記は執拗に迫る。
「どうじゃ、権兵衛。一言、転んだと言いなっせ。」権兵衛は首を横に振った。
散りぬべき時
権兵衛屋敷周辺は見張り番が立ち、物々しい雰囲気に包まれていた。
二男市太夫は一族全員に向かって言った。「みなでパライソへ行こうぞ」
女子供たちはすすり泣いていたが、祭壇のガラシャのマリア像に向かいオラショを唱えると、不思議に落ち着いて暖かく包まれるような感覚を感じた。
外記は苛立っていた。阿部屋敷からも何の返事がない。
そして四日後の期限を迎えた。
寛永二十年(一六四三)二月二十一日早朝だった。
外記は吐き捨てるように言った。
「あやつ(権兵衛)一人で終わらせんばい。切支丹を終わらすっとばい」
「せからしか。皆討て、おなごも赤子もじゃ」
「家中には切支丹ばいらんばい」
外記は、阿部一族誅伐隊を既に編成していた。
隊長は竹内数馬であるが阿部家の「身内」とされる。この時、数馬は死を覚悟したという。(『真説・阿部一族』)
馬上の数馬は桜吹雪の中をゆっくりと歩いた。
阿部屋敷正門に着くと唇を噛んだ。采配が空を切った。
静かである。
「数馬が玄関から屋敷に入ろうとすると、兄の八兵衛が阻止するが、数馬は押し入った。その直後に鉄砲により討死した。享年二十一歳だった。」(『真説・阿部一族』)
私は阿部一族は、非武装化され、獄屋化にされた権兵衛屋敷に監禁され、権兵衛の首を担保に転宗を迫ったと考える。外記は数馬も「身内」すなわちキリシタンであることを知っており、成敗されたのではないか。
最後を覚悟した市太夫はマリア像のある祭壇の部屋に入った。母、妻や子供達が肩を寄せ合っていた。抱かれていた子供達は震えながら泣いていた。その手にはコンタツ(ロザリオ)がしっかりと握られていた。
市太夫は十字を切って「さんたまりあ様、ぜすきりしと様」と叫んで祭壇に火を放った。やがて、阿部一族は「ことごとく討ち果たされ、家断絶いたし候」(『綿考輯録』)
私は「獄屋」の一族は、その場で全員斬首されたと考える。
ここに忠利が母への祈りを捧げ続けた「秀林院」は永遠に「停廃」したのである。
権兵衛は白川左岸の「井出ン口」刑場へ連行された。対岸の浄土宗西岸寺の住職が手を合わせていた。
縛首になった首は、一族の首と共にしばらく河原に晒されていた。捨板には「謀反の謀あり」と書かれていた。
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」(細川ガラシャ辞世の句)
エピローグ
慶安二年(一六五〇)十二月二十六日、藩主光尚が三十一歳の若さで逝去。
翌年の七月朔日、大目付林外記が佐藤伝三郎から打ち果たされた。(『日帳』)
理由は不明としているが、その後のお咎めなしとなっている。
忠利寵臣の家老米田是季(これすえ)の命令だったのか。
是季の手にはガラシャのマリア像が横たわっていた。(了)
参考文献
森鷗外著『阿部一族』
栖本又七郎『阿部茶事談』
藤本千鶴子著『歴史上の「阿部一族」事件』
『綿考輯録』第六巻 第二十六巻
ルイス・フロイス『日本史』
イエズス会『一五八二年の日本報告書』
細川家『日帳』~『福岡県史』近世史料編 細川小倉藩(一)(二)(三) 西日本文化協会 平成二年細川家『日帳』
上妻博之編著 花岡興輝校訂『肥後切支丹史』エルピス 一九八九年
吉村豊雄著『森鷗外「阿部一族」―その背景―』
『小倉藩人畜改帳』
『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』松田毅一監訳 同朋社出版一九八七年
矢島嗣久著『豊後の武将、宗像鎮続、大友吉統の重臣』
イエズス会『一六一五、十六年度・日本年報』
『大内時代の宇佐郡衆と妙見岳城督』北九州市立自然史 二〇〇四年
『新熊本市史』
松田毅一著『近世初期日本関係南蛮史料の研究』~イエズス会士コーロス徴収文書
朴哲著『グレゴリオ・デ・セスペデス』
『大分県史近世篇II』
後藤典子著『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』永青文庫研究創刊号
レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』吉田小五郎訳 岩波文庫 一九三八年
山本博文著『江戸城の宮廷政治』
『中世思想原典集成』~日本の倫理上の諸問題について 川村信三訳
武野要子著『藩貿易史の研究』
木島甚久著『小倉のきりしたん遺跡』
大橋幸秦著『検証島原天草一揆』吉川弘文館
東京大学史料編纂所『大日本近世史料』
『葉隠』
『新熊本市史』
『真説・阿部一族』