津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■文化の日の短距離走

2020-11-03 18:09:15 | 徒然

 私の朝の散歩は、ゴミ捨てに連動している。ゴミがないときには、必ずしも朝からということはない。
今日は文化の日で祝祭日だが、ゴミ収集はお休みではなく「燃えるゴミ」の収集日、9時過ぎに集積所にゴミを置き、その後散歩である。
しばらく歩いていたら、小学校中学年くらいの男の子が両手に大きなゴミ袋を下げて、わき道から出てきた。
この地区は、私の地区とは収集する業者が違うらしく、少々早めに回収車が来ている。そしていかにも発車しそうな感じ。
男の子も気づいたらしいが、両手にゴミ袋を持っていて走りにくそうで間に合いそうにない。
私はごみ袋を一つ受け取り、「間に合わないぞ、走れ」と声をかけ、回収車に大声で声をかけ二人で追いかけた。
声が聞こえたらしく、止まってくれた上、運転席から降りて走り寄り、ゴミ袋を受け取ってくれた。

 今日は天気も良く、都合4キロを歩いたが、その時の約30メートルほどの短距離走が応えて、コース半ばころからひざ痛が発生、足を引きずりながら帰宅して其後サポーターのお世話になっている。
多分爺様の大声で走らずとも、車は止まってくれただろうと思う。
「義をみてせざるは勇なきなり」だが、短距離走をするなんぞは、年を考えなくてはいかんな―と反省しきりである。

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■黒いコール天鵞絨

2020-11-03 12:56:45 | 徒然

 細川家の資料を読んでいると時折「天鵞絨=てんがじゅう」という言葉が出てくる。
「天鵞絨」はビロード(英語でベルベット)のことだ。
ところが細川家史料においては「天鵞絨」という言葉は、頭注でつかわれているのであって、本文では「びろーど」と書かれている。
当時すでに「びろーど」という言葉が通用しており、わざわざ小難しい頭注は的外れのように思える。
細川家では長崎へ人をやり、相当量の「びろーど=天鵞絨」を仕入れているが、贈答用ででもあったろうか。
案外、陣羽織などにも使われていたのかもしれない。
刺しゅうを施した秀吉の豪華な陣羽織は有名である。水戸徳川家に残る家康拝領の陣羽織も手の込んだものだ。
薩摩の島津家のものは赤地に「丸に十文字紋」がついている。
戦国期から近世初頭に大いに注目された生地であることが判り、大変興味深い。

 そういえば若いころよく聞いた洋楽にボビー・ビントンの「ブルーベルベット」という曲があったのを思い出す。
訳詞に「青い天鵞絨」等としたものもあり、大いに違和感がある。
城達也の詩の朗読と共に親しんだ番組「ジェットストリーム」で有名な楽曲の「ミスターロンリー」をうたってたのも彼だが、私が20歳そこそこのころのことだが、メロディーは夫々今でも覚えている。

 処で過日本屋に出向いた際、お向かいの U店を覗いてみた。
シャツを一枚買い、店内をうろうろしていたら、コーデュロイのジャケットが目に留まった。
現役を引退して最近ではスーツを着る機会がほとんどない。肩ひじ張るような会合に出かけることもないし、いつもラフな格好をしている。
涼しくなってくると外出するときは年代物のジャケットを羽織るようにしているが、さすがに買い替えの時期である。
その時はまた来ようと店を後にした。
処でこのコーデュロイは、縦畝があるいわゆるコール天と呼ばれるもので、ビロードの仲間である。
コール天とはコールドした「天」(天鵞絨)の意である。
(母子家庭だった私は、母の裁縫仕事のおかげで成長したから、生地については門前の小僧で些かの知識がある)

奥方に報告すると「黒が良いョ」と言われて、そうしようかと思っている。「黒いコール天鵞絨」である。



 

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■細川小倉藩(394)寛永六年・日帳(卯月十三~十四日)

2020-11-03 06:57:10 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年卯月)十三~十四日

         |       
         |     (四月)十三日  加来二郎兵衛
         |
京吉田邸作事出来 |一、牛嶋一郎右衛門尉所ゟ書状参候、様子ハ吉田御作事、三月晦日切ニ不残仕廻申由候て、十六人御
物奉行      |  上せ置候御鉄炮衆、只今十三人差下候、〆而三人ハ万事物奉行ニ今迄付候者ニ候ゆへ、主同前
         |  ニ仕廻次第、めしつれ可罷下由ノ状也、
         |        (辰珍)          (靱負、中村政長)
中村政長ニ福王十 |一、江戸ゟ、津川四郎右衛門尉殿奉りにて被仰下候は、ゆきへ江戸ニ罷有ニ付而、福王十蔵ニ能御な
蔵ヲ付ヶ能ヲ稽古 |  らわせ可被成早漏間、早々江戸へ罷下候様ニ可申渡旨、被仰下候ニ付而、則十蔵よび申候而、四郎
セシム      |  右衛門尉殿御奉書よミ候て、様子申渡候事、
牧竹遊宇佐参拝ヲ |一、牧竹遊途上にて被申候は、やかて宇佐宮へ参詣仕度候間、御暇被下候様ニと被申候、式ア殿へも
願ウ       |  被仰候而、早々御参候へと申候也、
         |一、深野二郎右衛門此間煩候而、今日登城被仕候事、
         |           
中国ヨリ巣鷹ヲ据 |一、渡辺三十郎、中国ゟ大鷹ノ巣鷹三居、昨夜持参仕、それ/\の御鷹師衆ニ相渡候由被申候事、
戻ル       |           〃〃
         |    だい    しょう         (木与村、長門阿武郡)
         |  但、ハ一つ・二つ在之由、当年ノ鷹ハきよと申山ノ須崎ニすをかけたると申由也、
         |                                   (斟)
毛利家ヨリ馳走サ |一、三十郎、先殿にて御馳走被成由、さ候て罷帰候時ハ、伝馬を被仰付候、科酌仕候へ共、のり候て
ル   伝馬貸与 |  も、のり不申候共、下関迄引せ可申由申ニ付、無是非乗候而参候由、被も仕候事、

         |      
         |     (四月)十四日  安東九兵衛
         |                                  (飯田)
三斎ヘノ端午ノ祝 |一、越中様ゟ 三斎様へ被進候端午之御状之御日付は、卯月十一日のよし、才兵衛付札被仕、被差越
儀ノ状ノ目付   |  候也、
走リ加子ノ処分ニ |一、御加子加右衛門儀ニ付、今日頼母殿にて御寄相在之ニ、修理・兵庫も参候事、
ツキ談合     |                                          
三斎走リ加子ニ寛 |一、頼母殿にて今日ノ御談合ニ、右加右衛門儀を 三斎様ゟ如何様共 越中様被 仰付次第ニと、
大ナル処分ヲ求ム |                                          〃
         |  併、御国へ参上ハ、とがなきものニ究候ハんと被 思召候間、余彼者めいわく不仕様ニと被 仰
加右衛門ハ発起人 |  下候、奉得其意由、御請申上候処ニ、今日御談合ハ、彼加右衛門企を以、何も走候由、此方へ走
         |       申候                    を、
質部屋へ入ル   |  来候加子共申上候、其上請人も在之無之候間、しちへやニ入置候由中津御奉行目で、修理・兵庫
中津へノ用件ハ有 |       〃〃〃      〃〃  
吉英貴三渕重政牧 |                                (三淵重政)(牧興相)
興相三人ニテスル |  ゟ書状を以、申入候様ニと被仰付候ニ付、中津への御用ハ、頼母殿・右馬殿・左馬殿三人ニ被 仰
ヲ命ゼラル    |  付儀候間、此御三人ゟ被仰遣候へと申候ヘハ、右ゟ此儀ハ修り・兵こかたへ被仰下候間、此度も
         |                                 (ママ)
走リ加子ニツイテ |  申進候へと被仰候ニ付、書状を以上、中津へ申入候御奉行衆迄申入筈也ニにて、頼母殿にて右書状
ハ浅山田中ニテ扱 |                     〃〃〃〃
ウ        |  ノ下書調被下候ニ付、相調、明日中津へ遣筈ニ仕候事、
中津へノ用ハ三老 |一、右之分二究候二付、書状調見申候処ニ、如此申入候ヘハ、 殿様御諚ハ違申候、中津之御用ハ
ニテカ二奉行二テ |  三人衆と被 仰出候二、私共指出申儀如何之由を、式ア殿内山本源大夫を以、式ア殿へ申入候へ
スルカノ談合   |  ハ、右之分二申定候ことく、今以可然候ハんと存候、乍去、其上二もかつてん成かね候ハヽ、又
         |  返事ニゟ、頼母殿ニ而一談合可成候間、頼母殿へ参候へとの御使候、畏存由申候而、参候処ニ、
         |  頼母殿・右馬殿被仰候ハ、中津ノ御用三人にて承候へと被 仰付候、併、奉行衆へ被 仰遣たる
         |  儀ハ、初中後奉行衆ゟ其埒を明候へとの 殿様御意被成候間、任御意、奉行衆ゟ申入候へと被
         |                      可
         |  仰候、 御意にて御座候ハヽ畏存候、則明日申入と申候、此方ゟ申候ハ、右ノ被 仰付にて候へ
         |  ハ、此前かと 御意を御背被成候由申候ヘハ、如何様之儀を背候哉と被仰候、御背候と申候ハ、
         |  此前私共所へ、中津ゟ被仰下候儀を、かやう/\の事を被仰候と、各様へ申候ヘハ、其返事を各
         |  様ゟ被成事も御座候かと覚申候、然上ハ、此儀ニ限、かやうニ可被仰儀とハ不存由申候処ニ、頼
         |  母・右馬助覚迄を可用ゟも、左馬允覚も可在之候、当分煩儀候間、頼母・右馬助、左馬允所へ
         |  参、右之中津へ之御用承様ノ 御意旨を聞可申とて、御越候、さ候て、おとなく御帰候て、被仰
         |  候ハ、左馬允ハ三人にて御用承候へと斗覚申候、奉行衆へ被仰違たる儀ハ、其埒明候迄、奉行衆
         |  存候様ニ被 仰付たる様ニハ少も覚不申由被申候、とかく我々両人 御意之旨を覚候間、修り・
         |  兵こゟ、書状を以申入候へと被仰候、 御意にて候ハヽ、畏存候由申候而、上野角左衛門ニ持せ
三斎へ英貴等三人 |  進候事、如此相究候処ニ、又御談合ノ上、中津へ御奉行ゟも、三人衆ゟ書状不被違筈ニ究、不遣
ヨリハ書状ヲ呈セ |  候事、
ズ        |

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