津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■安場氏・下津氏・山形氏

2020-11-05 10:40:15 | 侍帳

 [侍帳改訂作業] 昨日は安場氏、そのために安場保吉氏編の「安場保和伝」(藤原書店)を取り出して読む。
その内容は出版社の書籍案内には「総理にも動じなかった日本一の豪傑知事。「横井小楠の唯一の弟子」(勝海舟)として、鉄道・治水・産業育成など、近代国家としての国内基盤の整備に尽力、後藤新平の才能を見出した安場保和。気鋭の近代史研究者たちが各地の資料から、明治国家を足元から支えた知られざる傑物の全体像に初めて迫る画期作。」とある。

編者はご子孫の安場保吉氏、残念ながらこの本の刊行(2006.4.31)を待たずに、2005年に亡くなられている。

                         

 書名のごとく全448頁の内容はほぼ「安場保和」一人のことで占められている。
保和の活躍の時代ごとを、10人の近代史の識者や関係者が分担して著されている。
      

  • 熊本・維新時代 / 花立三郎 [執筆]
  • 明治政府成立時代 / 三澤純 [執筆]
  • 福島県令時代 / 福井淳 [執筆]
  • 愛知県令時代 / 住友陽文 [執筆]
  • 日本鉄道会社の創設へ / 中村尚史 [執筆]
  • 元老院議官・参事院議官時代 / 中野目徹 [執筆]
  • 福岡県令・県知事時代 / 東條正 [執筆]
  • 貴族院議員時代 / 小林和幸 [執筆]
  • 北海道庁長官時代 / 桑原真人 [執筆]
  • 安場咬菜管見 / 鶴見俊輔 [執筆]

最後にわずか1~2頁に先祖以来のことが書かれているが、すでに承知のことばかりであった。
初代九左衛門は、幽齋の田辺城籠城の際、堀を潜行して敵方・小野木縫殿助方に入り込み情報収集をしている。
先祖は伊賀氏(三郎を名乗る)だと伝えられ、なぜか服部氏を名乗ったりしており、忍びの家系をうかがわせる。
解説をしている安場保吉氏は、幽齋を二度にわたり忠興とする間違いを犯されている。
4代目の一平は、赤穂浪士・大石内蔵助の切腹の際介錯役を務めてその名を挙げた。
そして、この本の主人公・保和は11代目にあたる。

 安場保和には男子がなく、長女が下津久馬の二男・末吉を婿養子とした。
下津家は公卿久我氏、加藤清正に仕えた下津棒庵の子孫である。その子孫は細川家に仕えた。下津久馬の弟が山形典次郎である。安場氏に公卿のDNAが入った。

保和の次女・和子(ウイキペディアでは愛子としているが間違いか)は後藤新平に嫁いでいる。
その娘婿が靍見祐輔、その子が鶴見俊輔である。

保和の活躍は燦然と輝いて、その女子も良き伴侶を得られ、ご子孫は政界・財界・言論界・教育界等で活躍され名を成しておられる。
ご同慶の至りである。

付けたし:
全く偶然だが、その後磯田道史氏の「近世大名家臣団の社会構造」を読み、何気に「あとがき」を読んでいたところ、編者の安場保吉氏にお世話になったと書かれていて、偶然なことに驚いてしまった。
安場保吉氏は大阪大学教授で経済学者だが、磯田氏は「社会経済史学会」にも籍をおかれておりその関係であるらしい。

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■細川小倉藩(395)寛永六年・日帳(卯月十九~廿一日)

2020-11-05 06:48:19 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年卯月)十九~廿一日

         |       
         |     (四月)十九日  加来次郎兵衛
         |

花畠ニ淡竹ヲ植ユ |一、上林甚介をよひ、は竹西之御花畠ニうへられ候儀、其方奉ニて候哉と、尋ね申候処、御書付を被下
         |  置、うへ申由申候、はや大形うへ仕廻申候、今少だめをうへ申由申候事、
         |          アヘン
あひん作製完了  |一、上田太郎右衛門尉あひん悉仕舞候、持せ被上候、則林隠岐主へ渡させ候、大小数三拾九丁、内壱
大小三十九丁   |  帳ハ上々ノ由、残而三十八丁ハなミノ由、具様子、太郎右衛門隠岐へ被申渡候事、但、御天守
風ノ吹ク所ニ置ク |  か、いつれニ成共、風ノ吹候所ニ居可被申由也、


         |       
         |     (四月)廿日  安東九兵衛
         |                           (烏丸光賢女ヵ)
烏丸光賢女祝言ニ |一、中津ゟ、高橋兵左衛門奉りにて、 被申越候ハ、今度 御姫様御祝言ニ付、爰元の御侍衆為御祝
小倉家中ノ祝儀ニ |  儀、中津へ被参候儀無用之由、被仰出候間、早々可申触候由、被申越候ニ付、則御年寄衆へ申遣
中津へ行クヲ制ス |  候也、
         |                   (清久)
清水宗加危篤ノ報 |一、加々山主馬より、使にて被申候は、志水宗加煩とりつめ申候間、御見廻候而可然候由、申来ニ
惣奉行共ニ見舞ウ |  付、両人共ニ見廻ニ参候事、


         |       
         |     (四月)廿一日  加来二郎兵衛
         |
三斎饗応ニ肴ヲ求 |一、吉田縫殿助被申候ハ、 三斎様ゟ御客人御座候間、御肴調可上旨被仰下候間、御肴持夫可申付由被
ム        |  申候、則書状調、渡申候事、
中津ニテ絵成ル  |一、中津ゟ、大石與四右衛門・鯛瀬茂太夫両人、御絵書調申候間、御舟を廻候へと申来候、則御船頭
         |            
         |  松村久兵衛参相ニ付、善右衛門ニ右之通申渡候へと申聞、遣候事、
         |                           (白井)
加子請人ヲ立テ出 |一、御加子長二郎請人をたて申ニ付而、今日籠ゟ出し申候、兵助・善右衛門尉ゟ、松村久兵衛を請取
牢        |  ニ被越候間、則渡申候事、
         |   (重嘉)
江戸ヘノ音信   |一、横山助進与田代又介、明後日江戸へ御印信ニ成候御肴弐駄持せ、福王十蔵に付遣、惣銀を一貫
惣銀一貫目    |                  (忠利室、千代姫)
忠利室遣銀大坂ヨ |  目、御年寄衆ゟ御言伝有度由候、又 御裏様御銀大坂ニ弐三貫め在之候、慥仁江戸参候ハヽ、
リ上グ      |  持下候へと、爰元にて申渡候へと、大坂衆ゟ申来候、其ニ付、右田代又介ハ丈夫ものにて候哉と、
丈夫ナル者    |  月行司吉井甚兵衛ニ尋申候ヘハ、一段丈夫成者ノ由申候事、
谷主膳用事ヨリ帰 |一、谷主膳被申越候ハ、此中煩故湯治仕、二三日以前ニ罷帰候、然は明日ゟ御城番にて御座候へと
ルモ行歩叶ハズ  |  も、未行歩不叶申候間、御番ハ罷成間敷と奉存候、いかゝ可有御座哉と、被仰越候、晩頭ニて御
当番ニツキ伺ウ  |  座候間、かへをも御入可被成ニ候へとも、俄ニかへの人も無之候、其上相番ノ衆三人ニて候間、
番頭ノ相番三人  |  其分ニて能候由、返事申候也、
戻リシ走者筑前ニ |一、木村九右衛門譜代之小者去年走申候、今日走戻候、此中筑前ニ居申ニ付、走所悪敷候間、先
戻リシハ走所悪シ |  籠者か申付由、御家老衆被仰ニ付、新籠ニ入申候事、
新牢ニ入ル    |

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