忠利の小倉藩時代、藩政運営を担ったのが惣奉行といわれる役職である。
忠利の側近である馬廻りの中から選ばれた人々がこれを勤めたが、以下の如く一貫してこの職務に当たったのが浅山清右衛門(寛永四年正月、忠利命で修理と改名)である。
忠利の信頼の深さが見て取れる。
元和七年~元和九年 小篠次太夫 浅山清右衛門 仁保太兵衛 続兵左衛門
元和九年~寛永三年閏四月 西郡刑部少輔 浅山清右衛門 横山助進
寛永三年五月~寛永七年十二月 浅山清右衛門(修理) 田中与左衛門(兵庫)
寛永八年正月~寛永九年 浅山修理 横山助進 田中兵庫
この浅山修理という人物についての記録である。
○ 浅山修理 (1)千石・御留守居組 一書ニ御鉄炮二十五挺頭 (於豊前小倉侍帳)
(2)御鉄炮頭衆 千石 (肥後御入国宿割帳)・・修理之進
(3)御鉄炮頭衆 二千石 (真源院様御代御侍名附)・・修理亮
(4)二千石 (真源院様御代御侍免撫帳)
始め清右衛門、豊前に於二百石、寛永四年正月忠利の命によって修理亮と改。
忠利・光尚に仕。元和九年奉行職、同二十年三月五百石加増、都合弐千五百石知行。
慶安四年迄奉行在職。 (肥後人名辞書)
継嗣子と思われる「浅山仙助 留守居組・従是巳下 三百五十石]」という記録が「於豊前小倉御侍帳」に残るが、亡くなったのであろうか、寛永十八年に至り外孫を養子として願出た文書が遺されている。
私男子無御座候間養子仕度存候、左様ニ御座候へハ伊藤左内せがれ私孫ニて御座
候間、養子ニ被仰付可被下候処被得御錠可被下候 以上
寛永拾八年九月十四日 浅山修理亮(花押)
堀江勘兵衛殿
椋梨半兵衛殿
西郡要人佐殿
(裏)表書之通ニ可申付也
寛永拾八年九月廿五日 fosocawaroku(光尚ローマ字印)
奉行中
この伊藤佐内は丹後以来の家であり、150石取ながらなかなかの豪の者である。
*原城にて武功之面々御褒美被下候--黄金一枚袷単物帷子五宛(綿考輯録・巻四十九)
*二丸ニ而頸取候者・西郡要人佐与
二月廿七日二丸にて鑓を合つきふせ申内のものに首をとらせ申候与頭西郡要人佐ニ見せ申候
證人口相違無御座候已上(部分御舊記・軍事部八-四八 熊本縣史料近世編三 p130)
*従兄弟佐藤傳三郎、林外記襲撃に当たり助太刀、討死(慶安三年七月朔日)
この左内の息子が養嗣子となった浅山清右衛門であると思われる。
何があったのか延宝二年十一月には御暇を遣わされており、以降の浅山氏については全くわからない。
清右衛門 有吉内膳組 弐千石 (寛文四年六月・御侍帳)
延宝二年十一月二十三日 御暇被遣候 弐千石