津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お安く読む・岩波新書「景観からよむ日本の歴史」

2020-11-30 18:23:28 | 書籍・読書

                       

 小泉八雲(ラフかディオ・ハーン)は松江から熊本に赴任し、街角に立ち始めた西洋建築に些かの違和感を感じたという。
これは西南戦争で近世熊本の姿が失われてしまっていたことに寄る。古い町並みが残る松江を愛した小泉には受け入れがたいものであったらしい。
熊本の市街地は第二次大戦においても爆撃をうけ、昭和28年には大水害が熊本の街を飲み込み破壊した。
熊本の町はことごとく古い景観が奪い去られ、穏やかな歴史的風情を有しない街になってしまった。
その地に根付いた文化と共に、景観がもたらす街の風格は一朝一夕には成り立たない。
熊本の中心部や熊本駅周辺では開発工事が活発で、新たな近代的景観を作りつつある。
これらの点を結ぶ街々を含め新たな「森の都」の創成が望まれる。

そんな中で、このような著書が出ていることを知って注文した。

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■浅山修理という人

2020-11-30 10:18:44 | 史料

 忠利の小倉藩時代、藩政運営を担ったのが惣奉行といわれる役職である。
忠利の側近である馬廻りの中から選ばれた人々がこれを勤めたが、以下の如く一貫してこの職務に当たったのが浅山清右衛門(寛永四年正月、忠利命で修理と改名)である。
忠利の信頼の深さが見て取れる。

   元和七年~元和九年       小篠次太夫  浅山清右衛門 仁保太兵衛 続兵左衛門
   元和九年~寛永三年閏四月    西郡刑部少輔 浅山清右衛門 横山助進
   寛永三年五月~寛永七年十二月         浅山清右衛門(修理) 田中与左衛門(兵庫)
   寛永八年正月~寛永九年            浅山修理 横山助進  田中兵庫

この浅山修理という人物についての記録である。
   
   ○ 浅山修理   (1)千石・御留守居組 一書ニ御鉄炮二十五挺頭 (於豊前小倉侍帳)
           (2)御鉄炮頭衆 千石 (肥後御入国宿割帳)・・修理之進
           (3)御鉄炮頭衆 二千石 (真源院様御代御侍名附)・・修理亮
           (4)二千石          (真源院様御代御侍免撫帳)
      始め清右衛門、豊前に於二百石、寛永四年正月忠利の命によって修理亮と改。
      忠利・光尚に仕。元和九年奉行職、同二十年三月五百石加増、都合弐千五百石知行。
      慶安四年迄奉行在職。         (肥後人名辞書)

継嗣子と思われる「浅山仙助 留守居組・従是巳下 三百五十石]」という記録が「於豊前小倉御侍帳」に残るが、亡くなったのであろうか、寛永十八年に至り外孫を養子として願出た文書が遺されている。

      私男子無御座候間養子仕度存候、左様ニ御座候へハ伊藤左内せがれ私孫ニて御座
      候間、養子ニ被仰付可被下候処被得御錠可被下候 以上
              寛永拾八年九月十四日       浅山修理亮(花押)
                     堀江勘兵衛殿
                     椋梨半兵衛殿
                     西郡要人佐殿

       (裏)表書之通ニ可申付也
              寛永拾八年九月廿五日  fosocawaroku(光尚ローマ字印)
                     奉行中

この伊藤佐内は丹後以来の家であり、150石取ながらなかなかの豪の者である。
       *原城にて武功之面々御褒美被下候--黄金一枚袷単物帷子五宛(綿考輯録・巻四十九)
       *二丸ニ而頸取候者・西郡要人佐与
        二月廿七日二丸にて鑓を合つきふせ申内のものに首をとらせ申候与頭西郡要人佐ニ見せ申候
        證人口相違無御座候已上(部分御舊記・軍事部八-四八 熊本縣史料近世編三 p130)
       *従兄弟佐藤傳三郎、林外記襲撃に当たり助太刀、討死(慶安三年七月朔日)

この左内の息子が養嗣子となった浅山清右衛門であると思われる。
何があったのか延宝二年十一月には御暇を遣わされており、以降の浅山氏については全くわからない。

      清右衛門  有吉内膳組 弐千石 (寛文四年六月・御侍帳)
            延宝二年十一月二十三日 御暇被遣候 弐千石

 

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■細川小倉藩(417)寛永六年・日帳(六月十四日~十五日)

2020-11-30 06:48:28 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年六月)十四日~十五日

         |       
         |     十四日  加来二郎兵衛
         |

         |一、しちへや御番ノもの登城にて申候ハ、友田新丞煩、然々無御座候由、申候ニ付、節々被見廻候様
         |  ニと、松野道遊所へ申遣候事、
         |                     (瓜)
奈良漬用瓜ノ購入 |一、松本彦進登城にて被申候ハ、ならつけの苽六千かい申候処、うり無御座候而、やう/\弐千余か
毎年筑前ヨリ売人 |  い申候、惣別、筑前ヨリ毎年陸路をうりニ参候へ共、八百屋町之ものとも御門/\ニ付居申、直段
来ル       |                            (規矩郡)
         |  やすくかい申ニ付、今程ハ舟にてうりニ参候ヲ、御家中衆平松口へ小早なとを付置、かい被申ニ
         |  付而、 殿様ノ御用之うりかい申事不相成候間、平松口へ御鉄炮衆なとを付置、かい申様ニ可仕
万事ノ売物家中へ |      (浅山)
ハ売タガリ殿様ニ |  と被申候、修理申候ハ、左様ニ他国之証人ともうとミ、万事之売物をも御家中ニハうりたがり、
ハ売リ惜シム   |   殿様ヘハうりかね申子細ハ、あまりニ直段やすく被 召上ニ付而、右之仕合候、平松へ人ヲ付
         |  置、途中ニてかい申事、世間之取沙汰もいかゝニ候、御家中ニかい申うりを留、殿様迄ニかい
         |                                        ハヽ
浅山修理一般並ニ |  申やうニ候ヘハ、是又いかゝ候間、人ノかい申やうニ、直段やすくたかく被 召上候ヘハ、何ほ
高価ニ買ハシム  |  ともうりニ可参候間、其心得被仕候へと、申渡候事、   〃〃〃
         |        殿様
         |        〃〃
彦山政所坊ヨリ祈 |一、彦山政所坊ゟ、大廻りノ御祈祷御札被差上候、則御本丸ニ納置申候也、
祷札       |
松丸病状注進ノ早 |一、松之丸様の儀、江戸へ申上早飛脚ハ友田二郎兵衛与山崎角左衛門・井門亀右衛門与坂本佐左衛門
飛脚       |  也、但、上ノ遣銀を被遣、
         |            後、忠利に殉死す
田中以徳妻ノ煩ニ |一、小林吉大夫被申候は、田中以徳女房衆、以外煩被申候ニ付而、以徳薬師之才覚を茂仕度由候
自身薬師ノ才覚セ |  て五三日登城不仕候、御理を茂不申上候而、内ニ罷有事にて候間、此段御奉行衆申候而くれ候
ント欠勤ス    |  様ニと、被申候ニ付而、唯今申上候よし、吉大夫被申候事、

         |       
         |     十五日  安東九兵衛
         |
欅門番死跡    |一、御鉄炮衆小頭篠山勘右衛門登城にて申候は、けやき御門の番衆、此中壱人相果候、其跡かわりニ
         |  財津惣左衛門与塚本理右衛門尉と申候者、是を被召上候而、御門番被仰付候而被下候様ニと申
         |  候、何茂吟味仕候而、其上にて可申付由申候事、
         |
三斎ノ椎田放鷹ニ |一、荒木五郎助被申候は、 三斎様頓而椎田へ御鷹野弐被成御座候、左様ニ候ヘハ、御鷹野之刻、御
郡奉行ハ百姓ノ勢 |                                 (沢)
子頭ヲ勤ムガ例  |  せこニ百性ともも罷出候、せこ頭ニも御郡奉行罷出候筈にて候へ共、少兵衛は相煩、罷居候、拙者
         |  ハ爰元ニ相詰居申候内ニ、御鷹野二被成御座候、何とも可仕様御座有間敷候間、拙者罷帰度由、被申
         |        (豊岡)
         |  候ニ付、此段甚丞申渡、先御帰候而、重而御算用ニ被罷出候様ニと申渡候而、今日被罷帰候也、
祇園ノ浜手ニ捨石 |一、中山左次右衛門尉被申候ハ、祇園ノはまニすて石仕候、それニ付、御門ノかき入申候間、うけ
祇園浜手ノ門ノ鍵 |  取度申被申候、則かぎ壱つ渡候事、
         |一、松丸様御煩悪敷ニ付而、江戸へ御飛脚両人申付、差上申候、御小早之御船頭ハ宮崎孫左衛門尉
         |  也、御飛脚之名ハ昨日之内ニ付置候也、
築城上毛郡山奉行 |一、築城・上毛之御山奉行、御算用相済申候通、御算用奉行小林吉大夫同道にて被申ニ付、被差戻候
算用了ル     |  へと、申渡候事、
         |                  (元次)                 与
         |一、江戸ゟ、御飛脚両人今日着申候、芦田與兵衛与西角左衛門・山内勘兵衛〇石松左衛門、右両人ニ
忠利書状ノ覚   |  被成御下 御書覚
         |  一、御家老
衆中へ    御書壱通、
         |  一、式ア少輔殿へ    御書壱通、
         |    (松井興長室、三斎女)
         |  一、御こほ様へ     同 壱通、
         |  一、佐藤将監へ     同 壱通、
         |  一、明石源左衛門へ   同 壱通、
幕府豊後横目ヘノ |  一、豊後御横目衆へ為御印信 御判帋五枚、則式ア殿へ渡ル也、
音信用判紙五枚  |
         |     (定直)  
         |  一、楯岡孫市郎殿へ  御書箱壱つ、
江戸ヨリノ飛脚ノ |  右、江戸ゟ之御飛脚、江戸を今月参日ニ立、大坂へ九日之朝着、同九日ニ大坂出船仕候由申候也、
行程       |

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