津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■セイタカアワダチ草

2020-11-04 15:19:45 | 徒然

                                     

 散歩の帰り道、近道をしようと路地に入ったら、「セイタカアワダチ草」を数本見つけた。
以前は、いろんな空き地には必ず見られた、外来種で厄介もの扱いされていたが、最近では郊外にでも出ないと見かけることがなくなった。
何方が名付けられたのか、和名は「背高泡立ち草」である。背が高く、葉をお湯に入れると泡立つことからこのような名前がついている。
私は長い間、花粉症の大敵だと思い込んでいた。ところがこの植物の花粉は重くて、風に乗ることもなく花粉症にもならないということである。
よく似た花をつける「ぶたくさ」と間違えられているらしい。見分け方は葉の形らしい。
セイタカアワダチ草は、薬用とか食用(葉)とか、茎は代萩とも呼ばれ日よけのすだれの材料など、広範に使われ私達の用に貢献してるらしい。
                   021-14
そんなことを知って改めてみてみると、秋の草花と一緒に素朴な壺にでも入れれば、黄色が映えてよいかもしれない。

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■阿片製造にかかわった人

2020-11-04 11:09:55 | 人物

 すでにお気づきの方もお有りだと思うが、■細川小倉藩(390)寛永六年・日帳(卯月五日)、そして今日の記事にも「あひん」が登場してくる。
「あひん」は「あへん=阿片」のことだが、頭注においては「あひん」のままである。

上田太郎右衛門が忠利ノ命をうけて阿片製造にかかわった。太郎右衛門は、日本で初めてだという「葡萄酒」を作った人物でもある。
我が曽祖母の実家・上田家の初代・忠左衛門の弟である。兄・忠左衛門は宇佐郡の奉行を勤めていたが、弟・太郎右衛門は百姓仕事に携わっていたらしい。家族一党25人を伴い、太郎右衛門はなぜか忠利に召出されて、葡萄酒をつくり阿片までこしらえた。

 私はこの数件の「あひん」の記事には随分以前から気づいていたが、「あひん」が何物かが判らないままできた。
熊本大学永青文庫センターの後藤典子氏が、論考でこれを「阿片」だとされて、これには驚いてしまったところだ。
太郎右衛門による「葡萄酒」やこの「あひん=阿片」また三斎に供した「黄飯=チャーハン、パエリア?」、忠左衛門の子・忠蔵の「万力」の購入や西洋技術の習得のことなどをまとめた後藤氏の論考「1620年代 細川家の葡萄酒製造とその背景」が、吉川弘文館発行の「永青文庫の古文書」に掲載されている。
「ケシの汁」のラテン語を中国語音訳すると「アーピエン」ということから、日本では「あひん」と表記したのだろうと指摘しておられる。
細川小倉藩・日帳における頭注を担当された方は、ここまで調査が至らなかったのかもしれない。
今日の記事における、「からかねなべ壱つ入申候」とか、「あひん悉仕廻申、ほし申迄ニ仕」とか、ケシの汁を煮詰め干し上げる直前までの作業に、太郎右衛門が関わっていることが判る。
阿片といえば中国における「阿片戦争」から麻薬を想起させるが、この時期では「鎮痛・鎮静」の薬として重用されたのだろう。

 随分以前、玉名の方でポピーかと思い植えられていたものが、ケシであったと騒ぎになったことが有った。
散歩のコースの道端でさえ、ポピーの花は見受けるが、まさかケシではなかろうと通り過ぎているが・・・・

                      ケシの画像 けし

コメント (4)
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■細川小倉藩(395)寛永六年・日帳(卯月十五~十八日)

2020-11-04 07:44:57 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年卯月)十五~十八日

         |       
         |     (四月)十五日  加来二郎兵衛
         |

         |                  アヘン
あひん制作ニ唐金 |一、上田太郎右衛門登城にて被申候は、あひん仕候ニ、からかねなべ壱つ入申候間、何方ニ而成共、
鍋ヲ要ス     |  日仰付候而被下候様ニと、被申候間、有吉頼母殿ニ申遣、かりよせ渡候也、
談合       |一、両人とも御家老衆へ御談合ニ参候事、
飛脚江戸ヨリ帰着 |一、江戸ゟ続亀介与河口加右衛門・友田二郎兵衛与藤木正大夫、両人江戸を卯月四日ニ立、同九日五
ス   ソノ旅程 |  つ時ニ大坂着、同四つ時ニ御舟乗、同十五日ノ申ノ下刻ニ、小倉着申候事、

         |       
         |     (四月)十六日  安東九兵衛
         |
忠利ヨリ白黒ノ石 |一、江戸ゟ、白黒之石能よらせ候て、かますに入、大廻り之舟ニ積廻シ候様ニと、被 仰下候、則青
回漕ヲ命ゼラル  |  はまにて石よらせ申候、小舟二三艘も用意仕、追々取寄せ可申よし、かゝみ善右衛門ニ申渡候
青浜ニテ採ル   |  也、
白黒ノ石選採奉行 |一、右之石、青浜にてよらせ候御奉行、歩ノ御小性松岡九太夫・品川茂太夫、両人申付候也、
厩ノ者屋敷ヲ乞ウ |一、御馬屋之與九郎やしきを持不申候間、被下候様ニと、大学殿へ申理に付、大学殿人を付被遣候、
         |  聞届、やしきを遣候様ニと承候、心得申由申候、様子與九郎ニ尋候ヘハ、前かと江戸へ参候時、
蔵子ノ家屋敷ヲ購 |  やしきを上、其後罷帰、やしき無御座につき、御蔵子ノ與四郎と申ものゝ家屋敷をかい候て、今迄
入ス       |  居申候処ニ、家ハかい候ハヽ、取てのき■■候へ、やしきハ 殿様ノ御やしきにて候由、被申候
屋敷ハ殿様ノモノ |  ニ付、如此申上由申候、左候ハヽ、此方へ不申、大学殿へとびこし申候哉と申遣候事、
         |  (南条元信室、細川興秋女)
なべ苺ヲ求ム   |一、御なへ様ゟ、遠藤吉右衛門を以被仰下候ハ、いちごをおもらいなされ度■被思召由ニ付、上林甚
         |  介ニ申候ヘハ、各へ申候而へと申候間、さ候て被仰下旨ニ候、奉得其意候事由申候事、
         |             〃
湯治       |一、小林吉大夫此中御暇被下、湯治仕、此中罷帰候由にて、登城被仕候事、

         |       
         |     (四月)十七日  加来次郎兵衛
         |
         |一、皆川治ア方ゟ、林才三郎方へ被越候書状ニ、才三郎江戸へ可被 召寄哉と、治ア得 御諚候へハ、
         |  山崎加平次快気仕、参候ハヽ、同道にて参候へ、其内ハ無用之由、被申越由にて、治アゟ之状を
         |  熊谷宗安持参被申候を、写置候也、勿論、我々へ治アゟ被越候書状ニも、右之趣候、但、書状ノ
         |  日付ハ三月廿二日也、
         |一、奥村少兵衛快気仕、今日登城被仕候事、
福王十蔵出府ヲ告 |一、福王十蔵登城にて申候は、来ル廿三日ニ、江戸へ罷上度存候間、御用候は、可被仰付由申候事、
グ        |                  アヘン
あひん出来ス   |一、上田太郎右衛門登城にて被申候ハ、あひん悉仕廻申、ほし申迄ニ仕、上林甚介ニ渡置候由、被申
         |  候事、
松井邸ニテ相談  |一、式ア殿へ、御相談被成由にて、被召寄候ニ付、参候事、
大廻ノ荷尻木ノ残 |一、坂根九右衛門・本庄喜助、両人被申渡候は、今度大廻り荷しり木に仕せ候薪ノのこり在之間、請
リヲ薪ニ売払ウ  |  取申候而、御薪に払候様ニと申渡候也、

         |       
         |     (四月)十八日  安東九兵衛
         |
白黒ノ石ノ集荷  |一、生源寺市兵衛被申候は、今朝青浜より石持来候、吉田縫殿助前廉の屋敷に集させ可申と存候、如
         |  何可有御座やと被申候、一段可然候間、其通ニ可被仕候由、申候也、

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