津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■豊前入国後の忠興の子とその生母たち

2020-11-17 11:32:21 | 歴史

 忠興の豊前入国(1600・12月)以前に生まれた子女は、忠隆・興秋・忠利・長・古保・忠利・多羅・千丸そして最後は、万姫(烏丸光賢室)で慶長3年(1598)生まれである。万姫の生母は明智次右衛門女・小弥々で没年は元和9年(1623)である。

 忠興は豊前入国後三人の男子を成している。(女子一人夭折)
四男・立孝(立允‐宇土細川家祖)    元和元年7月15日生 生母・清田鎮乗素閑女・幾知
五男・寄之(松井興長養子・松井家二代)  元和2年生 生母・眞下元重女・才
六男・興孝(細川刑部家祖)       元和3年正月13日生 生母・立孝同母 

 年があまり変わらない三人の子たちは、長じて運命を異にしていく。
四男は溺愛され、忠興の八代入国後忠興領の相続を確実としていたが、忠興より早く亡くなってしまった。
同母弟の六男・興孝は3歳より江戸証人となり、21年間江戸暮らしをした。実兄・立孝とは異なり、父・三齋とは関係は良くなかった。
五男・寄之は元和七年には松井興長の養子に出されている。

 元和の初頭においては、忠興の側室・松の丸(藤)と多羅の二人の生母(郡氏)、小弥々(明智氏)、幾知(清田氏)、才(真下氏)の四氏が認められる。
松の丸は娘・古保(松井興長室)の許に在ったようで、現在ご紹介している「細川小倉藩」における記述においては、病にあることが記されており、興長が色々気遣いしている状況が見て取れる。寛永六年六月十九日没。
小弥々・幾知・才は三齋の許に在ったものと思われる。
但、寄之の生母・才については、元和四年の秋頃から五年にかけて、沼田勘解由延元におさげ渡しになっており、才はかわいい盛りであったろう寄之と引き離された。
つまり、寄之は実姉である養母・古保の手にゆだねられた。祖母にあたる松の丸にも可愛がられたのであろう。

立孝・興孝の生母・幾知はその後三齋に伴われ八代に入った。立孝死去後は興孝の許に在ったのではなかろうか、寛文三年七月二日死去、刑部家の菩提寺・慈眼庵に葬られている。

 ちなみに三斎はその最晩年になっても壮健で、細川家の系図には記載されない二人の女子を成している。
系図には記載されないが、綿考輯録にちゃんと記載されている。系図に登場しない姫様達

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■細川小倉藩(407)寛永六年・日帳(五月廿日~廿一日)

2020-11-17 06:58:53 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年五月)廿日~廿一日

         |       
         |     廿日  安東九兵衛
         |

医師内藤宗印病ニ |一、内藤宗印煩ニ付、土佐新太郎一人にて御番何成由、被申越候、宗印快気迄ハ、土々呂木以真御番
ツキ代番ヲ命ズ  |  可被仕由、切帋にて申遣候ヘハ、畏存由、返事ニ候事
         |   (近元斯波義近の嫡男・近利の子
川近元邸前ノ転 |一、津川数馬殿御座候前之へいころき候間、作事申付候様ニとの御使候、則作事奉行衆へ可申渡
倒ノ塀ノ作事ヲ命 |  由、御返事申候而、河田八右衛門ニ申渡候、畏候由、被申候事、
ズ        |
慶徳院邸ノ畳替  |一、慶徳院殿ゟ被仰候ハ、畳悉損シ申候間、新敷申付候様ニとの事、則、吉田源七郎をよひ、慶徳院
         |                    〃〃
         |          (沢村吉重)
         |  殿ゟ参候書付を渡、大学殿へ相尋候へと申渡候事、
豊後横目へ音信ノ |一、豊後御横目衆へ御音信ノ御使者腹孫助被遣候、則明日爰元を罷立候也、
使者       |
         |        (浅山)
他家使者ヘノ給与 |一、小山善次郎ニ修理尋候は、御使者ニ被遣候御帷子なとハ在之やとたつね申候ヘハ、御帷子・御単
ノ呉服在庫ノ確認 |  物、御使何時被参候とも、被遣候程御座候由、被申候也、
         |
石寺加兵衛病気ノ |一、仁保太兵衛登城にて被申候は、石寺加兵衛ゟやとわれ候而、登城仕候、科兵衛儀、昨日爰元へ知
替リ       |  行所ゟ罷越候へとも、散々相煩候而罷有候、竹田了由頼候而、脉なと頼候ヘハ、今ほとはき/\
         |  と快気在之間敷由、被申様ニ御座候、何茂快気仕次第、長崎へ跡より成共か罷下と存候、長崎へ
         |  被遣候前かと、か様ニ相煩、何共迷惑仕候由にて候、此通登城被仕候而、申上くれ候へ之由、加兵
         |  衛申候ニ付、如此候由、太兵衛被申候也、
松ノ丸食用ノ楊梅 |一、松之丸様御用ニ、田川ゟ楊梅弐籠、両度ニとりよせ候、請取切手、田川ゟ楊梅持来候御百生四郎
ノ請取切手    |  右衛門ニ渡ス、
         |    (利)(信方)
寛永五年分御蔵納 |一、保り與兵衛申候は、去年分御蔵納かた御算用仕上、返号取申候段申候也、
方算用ノ返号   |

         |       
         |     廿一日  (ママ)
         |

船頭中扶持方六月 |一、小船頭三宅清兵衛登城にて被申候は、来月ノ御船頭衆中御扶持米を御蔵ニ請取ニ参候ヘハ、三ケ
分三分一ハ大唐米 |
家中何レモ同然  |  一大東米を渡可申由、御蔵奉行申候ニ付、御尋申候由、被申候、金子・加藤方ニ様子被尋候へ之
         |  由、申渡候処ニ、何茂大唐米を渡候間、御船頭とても同前之由、両人清兵衛ニ被申渡、其通ニ
         |  心得、罷帰候也、
中野某へ袖判ニテ |一、長崎中野長兵衛ニ御袖判にて被借遣候弐拾貫目の御銀子之借状、惣積衆手前ニ渡置候也、
ノ貸銀借状    |
         |  (三斎側室、郡氏、松井興長室ノ母)
松ノ丸ヘノ楊梅  |一、松之御丸様御煩ニ付、楊梅あがり度由、被仰ニ付、田川へ申遣候ヘハ、安宅太左衛門尉手永ゟ壱
         |              (漸)
         |  籠取上候、山中を相尋、様々右分ほと取で申候、此後ハ在之間敷由、申来候事、
         |
                     楊梅=やまもも

         |        (楯岡哲斎、光直)
楯岡哲斎病死   |一、■今晩夜ニ入、鉄斎病死被成候事、

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