忠興の豊前入国(1600・12月)以前に生まれた子女は、忠隆・興秋・忠利・長・古保・忠利・多羅・千丸そして最後は、万姫(烏丸光賢室)で慶長3年(1598)生まれである。万姫の生母は明智次右衛門女・小弥々で没年は元和9年(1623)である。
忠興は豊前入国後三人の男子を成している。(女子一人夭折)
四男・立孝(立允‐宇土細川家祖) 元和元年7月15日生 生母・清田鎮乗素閑女・幾知
五男・寄之(松井興長養子・松井家二代) 元和2年生 生母・眞下元重女・才
六男・興孝(細川刑部家祖) 元和3年正月13日生 生母・立孝同母
年があまり変わらない三人の子たちは、長じて運命を異にしていく。
四男は溺愛され、忠興の八代入国後忠興領の相続を確実としていたが、忠興より早く亡くなってしまった。
同母弟の六男・興孝は3歳より江戸証人となり、21年間江戸暮らしをした。実兄・立孝とは異なり、父・三齋とは関係は良くなかった。
五男・寄之は元和七年には松井興長の養子に出されている。
元和の初頭においては、忠興の側室・松の丸(藤)と多羅の二人の生母(郡氏)、小弥々(明智氏)、幾知(清田氏)、才(真下氏)の四氏が認められる。
松の丸は娘・古保(松井興長室)の許に在ったようで、現在ご紹介している「細川小倉藩」における記述においては、病にあることが記されており、興長が色々気遣いしている状況が見て取れる。寛永六年六月十九日没。
小弥々・幾知・才は三齋の許に在ったものと思われる。
但、寄之の生母・才については、元和四年の秋頃から五年にかけて、沼田勘解由延元におさげ渡しになっており、才はかわいい盛りであったろう寄之と引き離された。
つまり、寄之は実姉である養母・古保の手にゆだねられた。祖母にあたる松の丸にも可愛がられたのであろう。
立孝・興孝の生母・幾知はその後三齋に伴われ八代に入った。立孝死去後は興孝の許に在ったのではなかろうか、寛文三年七月二日死去、刑部家の菩提寺・慈眼庵に葬られている。
ちなみに三斎はその最晩年になっても壮健で、細川家の系図には記載されない二人の女子を成している。
系図には記載されないが、綿考輯録にちゃんと記載されている。系図に登場しない姫様達