津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ちょうど13年前の事

2020-11-09 16:03:44 | 歴史

 私が細川家の葡萄酒作りに関して最初にブログに挙げてから、ちょうど13年(2003:11:08up)になる。細川小倉藩版ボジョレー・ヌーヴォーという文章を書いた。
私はこの時期、忠利から葡萄酒作りを命ぜられた上田太郎右衛門が、曽祖母の実家・上田家に関わる人物であることは知らずにいた。
2011:12:17日 memo上田久兵衛家初代周辺 で上田家の系図を書いたが、ここでも祖である忠左衛門と太郎右衛門が兄弟であることに気づいていない。
2013:09:03日の 黄飯・鳥めし・ナンハン料理は、跡で修正を入れているが、その原文では「忠左衛門家と太郎右衛門家の家紋が同じだから同族かもしれない」等と書いていた。
 このころから、細川家の葡萄酒作りが新聞その他メディアでも取り上げられるようになってきた。大分合同新聞から
これをうけて、マガジンハウスの雑誌「ブルータス」は、2015:10:15日号で「ワイン特集」を組み細川家当主・細川護熙氏を登場させたが、「日本のワイン製造は、細川忠興によって始まった !」という記事を載せた。忠利と忠興を間違えるという痛恨のエラーである。
毎日新聞は2016年11月2日付の夕刊で「江戸初期にワイン」と大々的に取り上げた。
「1620年代 細川家の葡萄酒製造とその背景」の著者、後藤典子氏は、その論考の中で「2016年、北九州市をワイン特区にすることとの関係で、毎日新聞から取材を受けたのがきっかけ」だと記されている。

その詳細な論考が日の目を見たのは、熊本大学永青文庫センターの「永青文庫研究・創刊号」(2018年3月発行)の「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」である。
まったく同じ時期に、お膝元「北九州市立自然史・歴史博物館」の「研究報告書」で永尾正剛氏が「細川小倉藩の葡萄酒製造」を発表された。

このことは細川家の内では古くから知られたことであり、細川護貞様はその著「魚雁集」のなかの「糠味噌と細川三齋」でさらりと触れていらっしゃる。

いみじくもメディアの大騒ぎが、細川家史料の一次史料から詳細を知るきっかけとなったのは皮肉である。

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■黄飯のこと

2020-11-09 13:15:47 | 歴史

 先日 ■阿片製造にかかわった人で「黄飯」について触れた。
ご厚誼をいただいているツツミ様から、「豊後の臼杵市の代表的な郷土料理に「黄飯」があるのを、ご存じでしょうか?」というコメントをいただいた。
臼杵藩は忠興女多羅姫が稲葉一通に嫁いでいる。嫡子・信通は多羅姫の子であり「彦四郎」の名で種々資料に名前が登場している。
       臼杵藩初代 2代  3代
稲葉一鉄→貞通→良通→典通→一通と続く由緒ある家であり、一鉄女・安が明智光秀に仕えた稲葉利三に嫁ぎ成した娘が、春日局であり、こちらも細川家とのかかわりは深い。
そんな臼杵の「黄飯」は「天保年間の藩の財政難から、倹約のため、赤飯の代用にくちなしの実で色を付けて食べたのが始まり」だとされるから、少々時代がずれている。
             郷土料理 黄飯(おうはん)

 一方細川家に伝わる「黄飯」については、寛永四年(月日不明)の次のような三斎が江戸から忠利に宛てた記録が残る。
「黄飯ノ料理仕者二人給候、我々存候と替り申候間、上田忠左衛門弟、只今可給候、鳥めしをもさせ、又ナンハン料理させて見申度候」
この弟こそ、細川家において葡萄酒製造に関わった、上田太郎右衛門だと比定されている。

細川家の黄飯を取り上げた、熊本大学永青文庫センターの後藤典子氏の論考「1620年代 細川家の葡萄酒製造とその背景」(永青文庫、同センター編著 永青文庫の古文書 光秀・葡萄酒・熊本城p119)によると、パエリアに似たものとされる。
臼杵には大友時代、宗麟の居城が有ったり、又のち江戸の「八重洲」に名を遺した、ヤン・ヨ―ステンが乗船してきた船が臼杵に漂着したりしているから、これらを通して「黄飯」の作り方ももたらされていたかもしれない。

いずれにしろ、三斎や忠利がこれら異国風の料理に大変関心を持っていたことが判るし、これら貴人の食文化が大変豊かであったことが判る。

 

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■細川小倉藩(399)寛永六年・日帳(五月朔日~二日)

2020-11-09 08:59:04 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年五月)朔日~二日

         |       
         |     朔日  安東九兵衛
         |

地震屋ノ作業着工 |一、御地震屋ノ御作事、今日より取付之由、荒瀬角兵衛・野村孫兵衛登城にて申候也、
         |             (苫)   二
買入レノ奉行  |一、御地震屋之上屋ねふき候とまかい被遣候御奉行、西沢文左衛門与手嶋次左衛門也、
         |              (長門豊浦郡)
         |一、右とまかいニ参候もの乗せ、へ参候御船頭、石井又左衛門也、
箏ノ漬物ニ手伝ヲ |一、足立與兵衛登城にて申候は、今日田川ゟ竹の子参候、おそく漬候ヘハ、やくに立兼申候間、手
求ム       |  伝被 仰付候ハヽ、早々つけ申度由申ニ付、余田さん右衛門所へ申遣、何にてなりとも、四五人程
         |  被渡候へ之由、申遣候也、
         |                   (豊後玖珠郡)万年村→玖珠町
         |一、佐藤七左衛門登城にて被申候は、今日小田村ノ御算用仕廻候而、罷帰候よし被申候事、
作事方ノ米銀ハ作 |一、豊岡甚丞ニ申遣候は、御作事かたに米銀之渡候分は、先当分河田八右衛門・矢野勘右衛門かり切
事方惣奉行ノ仮切 |                  
手ヲ要セシム   |  手を以、可有御渡候、御作事奉行両〇かたゟ林次郎兵衛・柏木仁右衛門所へ御作事の入目仕わけ
         |  の様子、目録被仕候而、被越候様ニと申遣候間、目録参次第、何之道ニ茂其埒明可申候間、其時
         |  (ママ)                                  安東
         |  其応、切手調候にて可在之候間、先右通にて可有御通由、九兵衛を以申遣候也、
         |                  (長門豊浦郡)
筑前ヨリノ走者ヲ |一、先度筑前ゟ、山作と申もの走来候、則下関へ渡候処ニ、又今日立帰、続平右衛門前にて修理見
下関へ渡セルモ立 |  付、則吉田縫殿所へ遣、吟味候て、又下関へ遣可被申由申候ヘハ、相改、重而来候ハヽ、成敗可
帰ル       |            
         |  申付由、堅申付渡候由申候事、

         |       
         |     二日  安東九兵衛
         |

         |     (主殿)
江戸ヨリノ飛脚ノ |一、江戸ゟ桑原与林十右衛門、去月十五日に江戸を立、大坂に廿日に着、廿二日ニ大坂出船申候、日
         |                                        (駿河志太郎)
旅程       |  和悪敷候ニ付、廿二日ニ出船申由申候、又杉山藤兵衛与清原理右衛門同道ニ而参候へ共、岡アに
江戸ヨリノ書状ノ |                      (加々山可政)
         |  て煩付候ゆへ、御宿主三郎右衛門所へ預置、加々主馬方へ切帋取下候、右十右衛門持下者数覚

         |   御書弐通  御家老衆三人ニ被遣、
         |         (松井興長室、三斎女)
         |   同一通   御こほ様へ、
         |   同一通   修り・兵こニ被下、
         |   同一通   御金山衆へ被遣、
請取       |一、御家老衆三人幷 御こほ様へ被進ノ候 御書三つ、慥請取申候、以上、
         |     〃                     式ア内
         |                            高屋金右衛門(花押)
         |一、皆川治アゟ林隠岐方への書状、玄徳ニ持せ届候事、
         |  (沢村吉重)
         |一、大学殿へ右治アゟ参候状、修りものニ持せ遣、広間番ノものニ相渡候事、
         |   (是次)    (氏次)
惣銀ノ内悪銀両替 |一、米田左兵衛・田中猪兵衛ゟ、惣銀ノ内ノ悪銀両替仕由にて、三匁百午匁と書付在之候を被差下候、
         |    (元明)                       〃
         |  則住江甚兵衛ニ相渡候事、
茶壷       |一、林隠岐ノ御つほ弐つニ、上林甚介ニ御茶つめさせ候、又ちいさき御つほ一つ、合三つ、何も隠    

         |  岐へ渡置候へと申付、又右衛門ニ持せ上ヶ候事、
         |    (是門)
公事聞米田是門知 |一、米田與右衛門尉知行を被 召上候間、御代官ニ引渡可申旨、御年寄衆迄被成 御書候由、御家老
行ヲ召上ラル   |  衆ゟ被仰渡候事、
         |一、長崎ゟ、中野長兵衛罷上候事、
三斎錫ノ大香箱ノ |一、高橋兵左衛門尉奉にて奉書参候、 第鈴香箱壱つそこぬけ候間、爰元ノすゞやニ入させ、能直さ
底抜ケノ修繕ヲ小 |  せ、上ヶ可申旨ニ而、爰元ゟ、絵書奉行ニ被遣候鯛瀬九郎太郎罷帰候便ニ参候、則当町すゝや
倉ノ錫屋ニ命ズ  |                                (ママ)
         |  清蔵をよひ、様子申渡候、但、手間銀ハ重而可申上候、其時可被下由旨、被 仰下候事、
         |  (長岡孝之)
         |一、中書様へ、大塚長庵ゟ被上候状、有田次兵衛ニ持せ上候事、
      

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