私が細川家の葡萄酒作りに関して最初にブログに挙げてから、ちょうど13年(2003:11:08up)になる。細川小倉藩版ボジョレー・ヌーヴォーという文章を書いた。
私はこの時期、忠利から葡萄酒作りを命ぜられた上田太郎右衛門が、曽祖母の実家・上田家に関わる人物であることは知らずにいた。
2011:12:17日 memo上田久兵衛家初代周辺 で上田家の系図を書いたが、ここでも祖である忠左衛門と太郎右衛門が兄弟であることに気づいていない。
2013:09:03日の 黄飯・鳥めし・ナンハン料理は、跡で修正を入れているが、その原文では「忠左衛門家と太郎右衛門家の家紋が同じだから同族かもしれない」等と書いていた。
このころから、細川家の葡萄酒作りが新聞その他メディアでも取り上げられるようになってきた。大分合同新聞から
これをうけて、マガジンハウスの雑誌「ブルータス」は、2015:10:15日号で「ワイン特集」を組み細川家当主・細川護熙氏を登場させたが、「日本のワイン製造は、細川忠興によって始まった !」という記事を載せた。忠利と忠興を間違えるという痛恨のエラーである。
毎日新聞は2016年11月2日付の夕刊で「江戸初期にワイン」と大々的に取り上げた。
「1620年代 細川家の葡萄酒製造とその背景」の著者、後藤典子氏は、その論考の中で「2016年、北九州市をワイン特区にすることとの関係で、毎日新聞から取材を受けたのがきっかけ」だと記されている。
その詳細な論考が日の目を見たのは、熊本大学永青文庫センターの「永青文庫研究・創刊号」(2018年3月発行)の「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」である。
まったく同じ時期に、お膝元「北九州市立自然史・歴史博物館」の「研究報告書」で永尾正剛氏が「細川小倉藩の葡萄酒製造」を発表された。
このことは細川家の内では古くから知られたことであり、細川護貞様はその著「魚雁集」のなかの「糠味噌と細川三齋」でさらりと触れていらっしゃる。
いみじくもメディアの大騒ぎが、細川家史料の一次史料から詳細を知るきっかけとなったのは皮肉である。