津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■馬と福田太華・中津大四郎兄弟

2020-11-06 10:51:37 | 侍帳

[侍帳改訂作業]  過日、ヤフオクを何気に見ていたら、福田太華の軸がいくつか出ているのに気付いた。
あの「蒙古襲来絵詞」の模写をしたことでも知られる、熊本における土佐派の開祖といわれる絵師である。
色々調べているうちに「馬医」の家の出であることを知り、実弟が「馬術師範役」の中津氏に養子となった大四郎であることを知った。
その弟・中津大四郎は西南の役においては、自ら竜口隊を結成しその隊長となって西郷軍の手足となり、延岡の北川の山中で切腹して果てた。

 肥後武道史によると、中津氏の初代・角七は宝暦年中、解龍流馬術の師範として細川家に召し抱えられたという。
この解龍流馬術は阿波徳島藩の岩田家二代七右衛門(1,300石)が開祖だとされる。藩主・蜂須賀家とは忠利代相婿(共に夫人が徳川家康養女)の関係であり親しい交流があった。
中津家初代も阿波の出かもしれない(先祖附未確認)し、時代が下ってはいるが、蜂須賀家と細川家の関係から召出されたものかもしれない。
 この解龍流という言葉については、森田誠一氏の小文がある。(歴史摘録)
森田先生がこれを「かいりゅうりゅう」「げりゅうりゅう」と読むのには少々違和感があると感じられ、武田流流鏑馬の竹原家のご当主におたずねになると、「げじょうりゅう」だとのご返事だったという。
インターネットで調べてもその読みに触れているものは見受けられない。
「龍=りゅう」を「じょう」とすることにも違和感を感じられたようだが、見事に読み解かれていた。
熊本では「ラリルレロ」をそれぞれ「ダジヅデド」と発音することが有ったのだそうだ。
「リ」は「ジ」であり、「龍」を坂本龍馬の「リョウ」とすると、これは「ジョウ」と発音することになり、「げじょうりゅう」とよむのであると。
これが森田先生の回答である。宗家がある阿波徳島では何と呼んでいるのか、少々興味がある。

こんなことを思い出しながら「新・肥後細川藩侍帳」の福田家・中津家の項の改定を済ませた。

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■細川小倉藩(396)寛永六年・日帳(卯月廿ニ日~廿四日)

2020-11-06 06:47:47 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年卯月)廿ニ日~廿四日

         |       
         |     (四月)廿二日  安東九兵衛
         |
         |    (光直)5月21日死去ス
楯岡哲斎ノ病状ヲ |一、楯岡鉄斎煩の様子、御年寄衆ゟ、御飛脚両人江戸へ差上られ候、御飛脚乗せ上り候御船頭続仁右
江戸へ報ズ    |  衛門也、
         |  (規矩郡)
白黒ノ石選採リヲ |一、青浜の石江戸へ廻り候分は、昨日かきりニ仕廻り申候間、今日より青はまにて、石よらせ候事や
止ム       |  めさせ申候、則此通申す、石よらせ候奉行の所へ状遣候也、
         |          小谷忠二郎与
飛脚長柄足軽   |一、右ノ御飛脚両人、〇忠右衛門・神戸喜平次与久七と申すものとも也、
牧竹遊宇佐参宮ヨ |一、牧竹遊、此中敷ア殿へ申、うさ宮へ参詣仕、罷帰由にて、登城被仕候事、
リ帰着ス     |
         |                             (南条元信室、細川興秋女)
吉田ノ門番下着ス |一、京吉田美被召置候御門番弥右衛門と申者、替候て罷下候ニ、御なへ殿・御かね殿へ被進之候端午
京ヨリノ音信物  |                                  (筑紫重門室、細川幸隆女)
なべかねへの端午 |                                       (宗珠院)
ノ帷子      |  之御帷子・御単物箱一つ入解候、則右御両所へ人遣■よひよせ渡候、又いよ殿へ、そうしゆい 
         |                                 (長沢顕長室、沼田清延女)
         |                                       (主水)
         |  んとのゟ下候物数四つ下候、黒瀬九郎右衛門ニ渡させ候、但、当町源五郎舟ニて、寺嶋ゟ被差下
運賃銀ノ仕分   |  候、うんちん銀ハ京ゟ切かミ不参ニ付、大坂にて渡不申候間、此地にて渡か申由、申来候ニ付、
         |                  (ママ)
         |  いよ殿へ参候分ハ、大嶋喜右衛門ニ様子うんちん渡候へと申渡候、又此方ゟハ、右ノかたひら入
         |  候箱一つノうんちん・弥右衛門乗下候うんちんハ可被相渡由、惣積衆へ申渡候事、
         |
         |  但、御納戸作兵衛をよひ、右御帷子相渡候、則遠藤吉右衛門御かね殿内半右衛門ニ渡被申候事、


         |
         |     (四月)廿三日  加来二郎兵衛
         |
福王十蔵出船   |一、福王十蔵幷田代又介今日出船申候、我々ゟ言上ノ文箱一つ、内ニ御金山ゟノ言上一つニ入、御家
江戸へノ書状   |         (坂崎成政)
         |  老衆ゟノ言上、同坂清左・永良長兵衛ニ右三人ゟ被遣書状一つ、佐藤将監ゟ言上一つ、河井権

         |                           (清)
         |  ・渡辺三十郎ゟ八喜木工方へ御鷹様子被申上条共遣候、半入ゟ平野九郎右衛門方への状一つ、右
         |  之外方々ゟ之状共数多遣候事、
有明黒ノ子馬ノ育 |一、上田忠左衛門被申候ハ、有明黒之子寒田村ノ百生ノ馬やニ置申由候、せばき馬やニ居候ハヽ、
成        |                              
牧山ノ厩ニ入置カ |  あしもわろく成、くつろき申間敷候間、御談合被仕、山ニ被成立置候御馬やニ御入置可然由、被
ム        |  申候事、
青浜ノ黒石ヲ銭蔵 |一、青浜ゟ参候黒石三十三俵、阿野新右衛門預ノ御銭蔵ニ入置候事、
ニ納ム      |
中津ニテ出来ノ小 |一、粟野伝介、中津へ今日御算用ニ被参候、中津にて爰元ノ絵を被成御書せ候、此絵出来候間、御舟
倉城ノ絵を運バシ |  を廻候へと申来ニ、御舟遣申候、幸儀候間、此舟ニ乗可被参由申、乗せ遣候事、
ム        |
青浜ノ石採リ終了 |一、松岡九太夫・品川茂太夫、青浜の石よらせ申、昨日まてニ仕廻申候よしにて、登城被申候事、
         |                       桑田左兵衛
         |一、大坂・京都へ遣候書状は、右十蔵乗上候御船頭〇ニ渡候事、
江戸へ運送ノ品目 |一、今日江戸へ田代又介持上物千よん百七拾は、ほしかまほこ・きりのし五斗・干まて千百くしの由、
乾蒲鉾  切熨斗 |  山中弥次右衛門・藤井喜兵衛申候事、
干馬刀貝     |

         |
         |     (四月)廿二日  加来次郎兵衛
         |
松脂ヲ求ムレドモ |一、田辺作介北前ゟ罷帰候、松やね如何無之哉と申候ヘハ、被仰下ニ付、方々才覚仕候へ共、一切無
ナシ  大坂ニテ |  之由申候、安芸と石見ノ堺ニ在之由、主親類ノもの申候、是へ被遣候ハヽ、一石弐石はかい可参
買ウガ宜シカラム |  由申候、此方ゟ申候ハ、わき/\を聞可申ゟ、大坂にてかいたる可然候ハん由申候事、
花畠ニ大梅三百実 |一、小堀長左衛門登城にて申候ハ、御花畠ニ大梅三百ほとなり候て御座候、如何可被仰付候哉と申候、
ル  漬ケサシム |  漬時分、足立與兵衛渡、漬させ候へと申渡候事、
         |               兵介・孫介
江戸ヨリ飛脚帰着 |一、江戸ゟ、為御飛脚御小人弐人〇参候、江戸を今月壱弐日ニ罷立、同十七日ニ大坂着、其まゝ大

ソノ旅程     |  を出船仕、今日着申候、小早ノ御船頭ハ野間惣兵衛也、江戸ゟ御奉行所へ之 御書、其外ノ状も
         |  一つも無之候、式ア殿へ御文箱持せ遣候也、
         |   (清久)
志水宗加死ス   |一、志水宗賀病死仕候事、

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