[侍帳改訂作業] 過日、ヤフオクを何気に見ていたら、福田太華の軸がいくつか出ているのに気付いた。
あの「蒙古襲来絵詞」の模写をしたことでも知られる、熊本における土佐派の開祖といわれる絵師である。
色々調べているうちに「馬医」の家の出であることを知り、実弟が「馬術師範役」の中津氏に養子となった大四郎であることを知った。
その弟・中津大四郎は西南の役においては、自ら竜口隊を結成しその隊長となって西郷軍の手足となり、延岡の北川の山中で切腹して果てた。
肥後武道史によると、中津氏の初代・角七は宝暦年中、解龍流馬術の師範として細川家に召し抱えられたという。
この解龍流馬術は阿波徳島藩の岩田家二代七右衛門(1,300石)が開祖だとされる。藩主・蜂須賀家とは忠利代相婿(共に夫人が徳川家康養女)の関係であり親しい交流があった。
中津家初代も阿波の出かもしれない(先祖附未確認)し、時代が下ってはいるが、蜂須賀家と細川家の関係から召出されたものかもしれない。
この解龍流という言葉については、森田誠一氏の小文がある。(歴史摘録)
森田先生がこれを「かいりゅうりゅう」「げりゅうりゅう」と読むのには少々違和感があると感じられ、武田流流鏑馬の竹原家のご当主におたずねになると、「げじょうりゅう」だとのご返事だったという。
インターネットで調べてもその読みに触れているものは見受けられない。
「龍=りゅう」を「じょう」とすることにも違和感を感じられたようだが、見事に読み解かれていた。
熊本では「ラリルレロ」をそれぞれ「ダジヅデド」と発音することが有ったのだそうだ。
「リ」は「ジ」であり、「龍」を坂本龍馬の「リョウ」とすると、これは「ジョウ」と発音することになり、「げじょうりゅう」とよむのであると。
これが森田先生の回答である。宗家がある阿波徳島では何と呼んでいるのか、少々興味がある。
こんなことを思い出しながら「新・肥後細川藩侍帳」の福田家・中津家の項の改定を済ませた。