細川家家臣には土佐・長宗我部家に関係する三家が存在する。
■長宗我部元親の弟・吉良親貞の家系である町家がある。長宗我部の「ちょう」を「町(まち)」と変えて家名とした。
■久武氏は、元親の子・盛親の家系だとされる。
私は久武氏とは縁戚関係にあり、過日ご当主の従兄妹にあたるY氏から、久武家に残る膨大な古文書等をCD化したデータを頂戴した。
久武氏は長宗我部家の家系だとされるから、その長大な家系図を遡るとその祖・秦河勝から連綿と当主の名前の脇に「河勝・□世孫」という書き込みがなされている。
■その家系図を眺めていたら「梅原九兵衛」の名あり驚いたが、同人は長宗我部氏であることはよく承知していた。
肥後細川藩士・梅原家の祖である。
梅原九兵衛は柳生流の高弟であったが、細川忠利が柳生宗矩に乞うて細川家家臣となった。梅原九兵衛召しだしの顛末
忠利の子・細川光尚の亡き後、幼少(6歳)の嫡男・六丸(綱利)に遺跡相続がなされるよう、松井寄之・沼田勘解由らと共に、江戸幕府と折衝を重ね、肥後細川藩54万石の継承に尽力した人物である。
九兵衛は折衝相手の酒井雅楽頭の袖を引いて懇願したことから「袖引き九兵衛」の名を遺した。酒井家とも懇意であったらしい。
長宗我部元親の血を引く、長宗我部泰信が関ヶ原落去後牢人仕、父・長岡内膳は討死、九兵衛は會津の加藤左馬介の臣・梅原十助の養子となった。それより江戸へ出て柳生家に出入りして但馬守と懇意になったという。
その顛末は「秘書」(梅原丹七・福地平左兵衛 一件略記) その三に書いた。
長曽我家
初代・能俊(よしとし) 秦河勝・一世孫
2代・俊宗(としむね)
3代・忠俊(ただとし)
4代・重氏(しげうじ)
5代・氏幸(うじゆき)
6代・満幸(みつゆき)
7代・兼光(かねみつ)
8代・重俊(しげとし)
9代・重髙(しげたか)
10代・重宗(しげむね)
11代・信能(のぶよし)
12代・兼能(かねよし)
13代・兼綱(かねつな)
14代・能重(よししげ)
15代・元親(もとちか)
16代・文兼(ふみかね)
17代・元門(もとかど)
18代・雄親(かつちか)
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19代・兼序(かねつぐ) 序尭 親興 道孝 国決
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20代・国親(くにちか) 国康
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21代・ 親貞 親泰 親房(島弥九郎)
元親(もとちか) ┃ この家系が明治に至り長宗我部氏の正当家系と認定された。
┃ 吉良左京進親実) 長宗我部関係の著書を多く出されている、長宗我部友親氏が現当主である。
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┃ 町源右衛門
┃ (細川藩士・町氏祖)
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信親 親孝(親和) 親忠 22代・盛親
久武内蔵介 (肥後・加藤清正臣)忠廣公宛行状
河田八右衛門(豊前・細川忠利臣)福岡県史・近世史料集‐細川小倉藩・二
(細川藩士・久武氏祖)
別系に 盛親━泰信━高橋内膳━梅原九兵衛 (細川藩士・梅原氏祖)