津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■歯の治療

2020-11-16 13:31:39 | 徒然

 二三日、トンプクを呑んで歯の痛みに耐えてきたが、今日昼前に予約しておいた歯医者さんに出かけて治療に入る。
右奥歯の下のかぶせ物が外れ、黴菌が入り虫歯になったらしい。
上の方も怪しいらしく、これも直していただくことにしたが、あと五回ほどの通院が必要なようだ。
今日は約一時間、口を開けっ放し状態と麻酔のせいで、口の違和感が半端なくあくびもままならない。
麻酔を二本打ったから御昼抜きになってしまい、腹もぐう/\なっているが仕方がない。
今年中にはさっぱりして御正月をむかえられることだろう。

治療を受けながら、昔の歯痛の治療を受ける手段がなかった人たちは、このような痛みにどうしたのだろうかと考えてしまった。
「農家至宝記」という文書には、「鶏のふん白きを、黒焼末とし、虫歯のくいたる孔へひねって入れれば、立所に痛み止まる」とある。
幼いころは、祖母からラッパのマークの「正露丸」を詰めておけと言われたが、「鶏のふんの黒焼き粉末」よりはましだろう。

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■細川小倉藩(406)寛永六年・日帳(五月十八日~十九日)

2020-11-16 10:46:50 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年五月)十八日~十九日

         |       
         |     十八日  (ママ)
         |

         |一、山田市左衛門登城にて被申候ハ、 殿様御上洛前ゟ、散々相煩、色々養生仕候へ共、未然と快気
         |  不仕候、然とも、今程ハ御番にて御座候ニ付而、何とそつとめ可申と存、罷出申候由ニて、登城
         |  仕由、被申候也
         |                             ( 鶉 )
松井興長預リノ白 |一、式ア殿ゟ、山瀬勘兵衛を以被仰越候ハ、田川ゟ上り申候白キうつら、今迄預置申候へ共、猫数多
鶉ヲ猫害を懼レ鷹 |  在之ニ付、用心難成候間、河井権之丞ニ可相渡置と存候間、其分ニ心得可申由也、得其意存通、御、
匠へ渡サントス  |  返事申候事、

         |       
         |     十九日  加来二郎兵衛
         |

幕府豊後目付ヘノ |一、式ア殿ゟ被仰候ハ、豊後御横目衆へ被進物、調可申との書付御越候、
音信物      |
         |  一、諸白樽三升入   六つ、
 道明寺糒    |  一、道明寺      六十袋、
 能登鯖     |  一、能登さは     六十さし、
         |    (南  蛮  漬)
         |  一、なんばんつけ物  四つほ、是ハ長崎へ可申遣、但、こゝもとニ可在之哉、御納戸衆ニ可相尋也、
笛吹才三郎ノ道中 |一、村才三郎江戸へ被 召寄ニ付、遣銀ハ中小姓並ニ、惣積衆ゟ被相渡候事、
遣銀ハ中小姓並  |
         |                     (花押抹消サル)
忠利書状唐人少峯 |一、少峯へ被成遣 御書、飯銅上右衛門ニ渡ス■、
宛        |  但、爰元へ少峯参候ニ付、此方ゟ相渡候也、
城番服中欠勤届  |一、内藤宗印ゟ申越候ハ、明日番より御城之御番にて候へとも、腹中気ニ御座候故、御番男成存候由、
         |        (此か)
         |  被申越候、返方返事、左様ニて候ハヽ、御番なるましく候間、御養生めされ候へ之由、申候也、
         |    (米田是季)
家中ノ下女走ル  |一、長岡監物殿ゟ被仰下候は、我等召遣候村上二郎大夫と申者の下女、昨日走申候処ニ、彼女夜ニ入
         |     (規矩郡)
         |  候而、高月村百姓居申候わきニ参候処、殊外犬ほえ申候ニ付、高月の御百姓惣右衛門と申者出候而見
         |  申候ヘハ、女壱人居候ニ付、何ものにて候そ、何国より来候やと申候ヘハ、はかたより来候由申
国境ニ来ル者ハ詮 |  候、博多ゟ来候共、又は小倉より来候とも、堺目ニ来候ものゝ儀にて候間、さんさく仕候、遣
索スべシ     |  可申と申候て、右ノ御百姓性惣右衛門内ニよび入候而、かの女の口を能聞候ヘハ、監物殿内ニ居申
         |  由、申候ニ付、惣右衛門右之女をめしつれ候而、監物殿へ参候ニ付、式ア殿・頼母殿へも此通申
分国内ニ居ル上ハ |  入候、御両人被仰候は、彼女筑前ノ内ニも不参、御分国ノ内ニ罷居候上は、別条アリ間敷候間、如
別条ナシ     |  前々、右ノ村上次郎太夫召遣候様ニ被仰付候而可然候由、式ア殿・頼母殿被仰候由、監物殿使者
         |  姫嶋清太夫と申者申候、此方ゟ申候は、左様なる出入、御奉行所ニ申来候共、御年寄衆へ申入候
         |  わけにて候ニ、幸、式ア殿・頼母殿、右之■通ニ被仰候は、其通ニ可被成候由、御返事申候也、
中野某ヘノ貸銀当 |一、中野長兵衛ニ御銀弐拾貫目かし被遣内ニ、後の新銭千貫文之内有之を、直段を七貫目にして請取
所新銭千貫文弱ヲ |  可由申候、さやうニ直段をさけ候儀如何ニ候へ共、不入物を御蔵ニ置候而も、御銀ニ成申事ニ
七貫目ニ渡ス   |  て無之候間、其分ニ仕遣し可申由、伝介・甚丞相談ニて遣候也、
ソノ理由     |
唐人少峯呼寄ニツ |一、長岡式ア少輔殿ゟ、井上弥ニ右衛門ゟを以被仰下候は、少峯やかて爰元着可仕候、主自由ニ参候
キ賄費ヲ渡ス   |  時は、可為自賄候へとも、此度は御用ニ付而参候儀にて御座候間、 殿様ゟ御賄ノ儀を被仰付候
         |  手可然存由、被仰下候、一段御尤ニ奉存候、則右ノ通化申付候由、御返事申候也、 

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■細川家家臣・長宗我部系三家

2020-11-16 08:16:35 | 侍帳

 細川家家臣には土佐・長宗我部家に関係する三家が存在する。

■長宗我部元親の弟・吉良親貞の家系である町家がある。長宗我部の「ちょう」を「町(まち)」と変えて家名とした。

久武氏は、元親の子・盛親の家系だとされる。
私は久武氏とは縁戚関係にあり、過日ご当主の従兄妹にあたるY氏から、久武家に残る膨大な古文書等をCD化したデータを頂戴した。

久武氏は長宗我部家の家系だとされるから、その長大な家系図を遡るとその祖・秦河勝から連綿と当主の名前の脇に「河勝・□世孫」という書き込みがなされている。

■その家系図を眺めていたら「梅原九兵衛」の名あり驚いたが、同人は長宗我部氏であることはよく承知していた。
肥後細川藩士・梅原家の祖である。

梅原九兵衛は柳生流の高弟であったが、細川忠利が柳生宗矩に乞うて細川家家臣となった。梅原九兵衛召しだしの顛末
忠利の子・細川光尚の亡き後、幼少(6歳)の嫡男・六丸(綱利)に遺跡相続がなされるよう、松井寄之・沼田勘解由らと共に、江戸幕府と折衝を重ね、肥後細川藩54万石の継承に尽力した人物である。
九兵衛は折衝相手の酒井雅楽頭の袖を引いて懇願したことから「袖引き九兵衛」の名を遺した。酒井家とも懇意であったらしい。

長宗我部元親の血を引く、長宗我部泰信が関ヶ原落去後牢人仕、父・長岡内膳は討死、九兵衛は會津の加藤左馬介の臣・梅原十助の養子となった。それより江戸へ出て柳生家に出入りして但馬守と懇意になったという。
その顛末は「秘書」(梅原丹七・福地平左兵衛 一件略記) その三に書いた。

長曽我家
  初代・能俊(よしとし) 秦河勝・一世孫
  2代・俊宗(としむね)
  3代・忠俊(ただとし)
  4代・重氏(しげうじ)
  5代・氏幸(うじゆき)
  6代・満幸(みつゆき)
  7代・兼光(かねみつ)
  8代・重俊(しげとし)
  9代・重髙(しげたか)
10代・重宗(しげむね)
11代・信能(のぶよし)
12代・兼能(かねよし)
13代・兼綱(かねつな)
14代・能重(よししげ)
15代・元親(もとちか)
16代・文兼(ふみかね)
17代・元門(もとかど)
18代・雄親(かつちか)
  ┃
  ┣━━━━━━━━━━┳━━┳━━┳━━┓
  ┃          ┃  ┃  ┃  ┃
19代・兼序(かねつぐ)   序尭  親興  道孝 国決
  ┃
  ┣━━━━━━━━━━┓
  ┃          ┃
20代・国親(くにちか)    国康
  ┃
  ┣━━━━━━━┳━━━┳━━━┓
  ┃       ┃   ┃   ┃            
21代・       親貞   親泰    親房(島弥九郎)           
元親(もとちか)     ┃          この家系が明治に至り長宗我部氏の正当家系と認定された。 
  ┃      吉良左京進親実)    長宗我部関係の著書を多く出されている、長宗我部友親氏が現当主である。
  ┃       ┃          
  ┃              町源右衛門  
  ┃      (細川藩士・町氏祖)
  ┃                        
  ┣━━━┳━━━━┳━━━━━━┓        
  ┃   ┃    ┃      ┃      
  ┃   ┃    ┃      ┃        
 信親  親孝(親和) 親忠   22代・盛親
                   久武内蔵介 (肥後・加藤清正臣)忠廣公宛行状
                   河田八右衛門(豊前・細川忠利臣)福岡県史・近世史料集‐細川小倉藩・二
                   (細川藩士・久武氏祖)
 

                                                        別系に 盛親━泰信━高橋内膳━梅原九兵衛 (細川藩士・梅原氏祖)
               

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