津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■四代目の死

2021-07-07 17:05:22 | 先祖附

 久しぶりに我が家の先祖附を眺めたところだが、四代目が亡くなったことについて「病乱ニ而寸七枚仕候事」と不思議な文言が出てくる。
今日は七夕様だが、たなばたと読むから「七=たな」ということはなかろうとふと馬鹿なことを思った。
人様にも聞いたり、インターネットでも幾度も検索してみるがヒントになるものが少しもない。
悪友は「読み間違いだろう、原本をよく見てみろ」というが、これは川口恭子先生にお読みいただいたものだし、私が見てもそう読める。
当人は病気持ちであったらしく、お役替えを願い出たりしているが、終には御番方に召し加えられた。
実は永青文庫蔵の先祖附の方は「病乱异死」と記している。
「异=異」だから、とにかく激痛で七転八倒とか、血を吐くとかいずれにしろ尋常ではない死に方ではないかと推察さる。
「寸七枚」とはそのような状態を示しているものと思われるが、とんと見当がつかない。
仏教の用語かもしれないがそれでもインターネットでヒットしないことはないと思うのだが・・・

今日は七夕、「七」の字の御縁で何やらヒントを夢枕に立たせていただけないものかと思ったりしている?

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■祐筆頭

2021-07-07 07:00:14 | 先祖附

 あるお宅の資料を読んでいたら、250石で祐筆頭を務めていたとある。

我が家にも「祐筆頭」を務めた人物(3代・又之允)がいるのだが、当時100石取りである。
「頭」ではなくて単なる平の祐筆だろうと親族の一人が言ったが、これだけ禄高が違うとそうかもしれないとも思う。
但し藩庁に提出した先祖附に記載されていることだから、間違いなかろうと思ったりもする。
もともとは150石取りの家が、どういう訳か100石取りになり、宝暦の改革の「世減の規矩」により擬作取に落席したが、どうやらそれでも「祐筆頭」という役職にはつくことが出来たらしい。
我が家の250年余の御奉公の中で、「頭」という役についた人物はこの人ただ一人である。

西山禎一氏著の「熊本藩役職者一覧」によると、次のように説明されている。

  右筆(祐筆)頭
 はじめ一人。宝永3年以後は2人。独礼右筆として召し出され、中小姓に進級した後、新地100石を宛行われて右筆頭に
 任
命された。なお千原庄助は元文4年、擬作高100石を支給されて右筆頭に任命された。宝暦6年10月には1人増員さ
 れ3
人となった。これは書奉行が廃止され、書奉行の勤稜もすべて右筆頭の任務となったからである。
 武居忠助は宝暦6年8月5日擬作高100石を支給され、中嶋作太夫跡の右筆頭に任命され、書方支配頭の支配となった。
 天明5年と推察される「士席名簿」では小笠原備前・志水才助(中老)支配とある。天保6年の「職制」では3人、書
 方用人付属とある。


 これだけの説明がなされているところを見ると、代々の「祐筆頭」を務めた人物の名簿などが残されているのではないかと思われる。
我が家のご先祖様の名前が登場すれば、疑いも晴れるのだが・・・

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