津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■幽霊坂

2021-07-11 14:19:24 | 徒然

 かって文京区小石川にあった細川侯爵邸は、正面が現在の目白通り(北側)、東側が胸突き坂と呼ばれて現在の永青文庫の正門が面している。
幽霊坂とは細川侯爵邸の西側に当たる道路でこのような名前がついている。
広大な敷地は現在、旧侯爵邸(現在の和敬塾本館)、家政所(現在の永青文庫)、松聲閣(文京区・肥後細川庭園=旧・江戸川公園)のほぼ三ブロックに分かれている。
幽霊坂を挟んだ目白通りに面する西側の広い公園が、かっての田中角栄邸であり、相続税の現物納入で削られて公園となっている。
松聲閣の西側から目白通り迄の約130メートルの幽霊坂はいつのころからか直線化されているが、松聲閣前の道向こうの西南角にも侯爵邸の敷地が広がっており、細川家に働く人や細川家が保護した画家や工芸家の住む家が数軒並んでいた。
先に私はヤフーオークションで、「和敬塾」の数枚の建築図面を手に入れた。
ここに今では幽霊坂で分断された一角に、私が生まれた家を含む数軒の家が描かれていることを確認した。
私はここで生まれた。祖父様が細川家の家政所に勤めていたからである。
これらを含む広大な敷地の内、私の戸籍を見ると出生地「東老松町76番地」もその一部であることが判る。
母は生前、胸突き坂の事はよく話していたが、当時昭和10年代は現在のような舗装もされていなかっただろうし、手すりなどもなかったろうから、早稲田方面に出るのに大変苦労をしていたことを口にしていた。
詳く聞いておくべきだったと今にして思うのだが、家からは幽霊坂に続く道に出て、神田川添いに芭蕉庵の所まで出た方がよかっただろうにと思うのである。
姉が関口台小学校に通うためのルートはどうだったのか、尋ねる機会もなく亡くなってしまった。
「幽霊坂」の命名の由来は知らないが、古い話なのであろう。等高線の込み入った所にある切通のような感じで、木々が鬱蒼として暗い道であったのかもしれないから、母はこの道を避けたのだろうか。

               

 合点がいかぬのが上のこの地図、明治のころのもの様だがほとんど現況に近く「松聲閣」の前に道らしいものがが通っている。敷地内通路か?。
この地図によると、松聲閣の前に数軒の家が見えるが、職員用の家なのかもしれない。
私が現在所持している「和敬塾」(昭和九年)の配置図によると道はない。この道がいつ現在のような状態になったのか知りたいところである。

              

コメント (7)
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■用人という職

2021-07-11 08:50:23 | 歴史

 用人というのは家政職に一つである。はじめは側衆といったが、正徳4年に用人と改められた。定員10名。
ある時期、君側にあって政事にかかわり権力をほしいままにした。
いまわしい歴史として今に伝えられる。
先にも触れたが、大村壮助が著した「肥後経済録」においては、「先代の近習なとハ、武文の芸はなく、ただ柔弱ニて何の志も無之者多く、外様にましはり不申候故、自然近習の風と成り、万事不案内の者多く・・・」と手厳しい。
ここでいう先代とは宗孝公のことである。これらの人々が誰をさすのか「主要役職員」の一覧をみれば一目瞭然だが、詮索はここでは避けておこう。
宗孝の不幸な死の跡を継いだ重賢は、それでもこれらの人材を切ることなくを受け継いだとされる。
しかしながら宝暦の改革においては大ナタを振るい、用人の座班(席)を落とし、知行も落とし、もっぱら家政職に専従せしめた。用人の分職であった大目付も専任の役職として独立し、用人より座班は上座に据えられた。
以降これらの政事介入はなく、家老職や大目付などに進席する事例も絶えた。

                             

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