かって文京区小石川にあった細川侯爵邸は、正面が現在の目白通り(北側)、東側が胸突き坂と呼ばれて現在の永青文庫の正門が面している。
幽霊坂とは細川侯爵邸の西側に当たる道路でこのような名前がついている。
広大な敷地は現在、旧侯爵邸(現在の和敬塾本館)、家政所(現在の永青文庫)、松聲閣(文京区・肥後細川庭園=旧・江戸川公園)のほぼ三ブロックに分かれている。
幽霊坂を挟んだ目白通りに面する西側の広い公園が、かっての田中角栄邸であり、相続税の現物納入で削られて公園となっている。
松聲閣の西側から目白通り迄の約130メートルの幽霊坂はいつのころからか直線化されているが、松聲閣前の道向こうの西南角にも侯爵邸の敷地が広がっており、細川家に働く人や細川家が保護した画家や工芸家の住む家が数軒並んでいた。
先に私はヤフーオークションで、「和敬塾」の数枚の建築図面を手に入れた。
ここに今では幽霊坂で分断された一角に、私が生まれた家を含む数軒の家が描かれていることを確認した。
私はここで生まれた。祖父様が細川家の家政所に勤めていたからである。
これらを含む広大な敷地の内、私の戸籍を見ると出生地「東老松町76番地」もその一部であることが判る。
母は生前、胸突き坂の事はよく話していたが、当時昭和10年代は現在のような舗装もされていなかっただろうし、手すりなどもなかったろうから、早稲田方面に出るのに大変苦労をしていたことを口にしていた。
詳く聞いておくべきだったと今にして思うのだが、家からは幽霊坂に続く道に出て、神田川添いに芭蕉庵の所まで出た方がよかっただろうにと思うのである。
姉が関口台小学校に通うためのルートはどうだったのか、尋ねる機会もなく亡くなってしまった。
「幽霊坂」の命名の由来は知らないが、古い話なのであろう。等高線の込み入った所にある切通のような感じで、木々が鬱蒼として暗い道であったのかもしれないから、母はこの道を避けたのだろうか。
合点がいかぬのが上のこの地図、明治のころのもの様だがほとんど現況に近く「松聲閣」の前に道らしいものがが通っている。敷地内通路か?。
この地図によると、松聲閣の前に数軒の家が見えるが、職員用の家なのかもしれない。
私が現在所持している「和敬塾」(昭和九年)の配置図によると道はない。この道がいつ現在のような状態になったのか知りたいところである。