細川藩において「大目附」という役職が独立するのは、宝暦の改革以降である。
それまでは数人いる用人の分職の一つであった。悉皆用人の専横があって政がゆがめられたが、監察の機能を託された目附がそもそも用人職の分職であったことが不思議に思える。
藩政の改革においては、大目附職は家老・中老・備頭・城代・大奉行につづく重要な役職となった。
これは一人が任命され、役高1,500石・役料米100俵と定められた。この中から大奉行・備頭・中老・家老へと進席する人がでた。
家老には平野新兵衛(天明3年)、朽木多仲(完成6年)、三淵守礼(寛政2年)等3人が見受けられる。
一方「用人職」は宝暦の改革以降は座班においても役高においても、降格されたことが目に見えている。
それまでは用人から中老職に転じた人が多く見受けられたが、改革以降は政からは完全に外れ、家政職を専らとすることになる。
宝暦以降は転任による際立った進席は見受けられない。大目附が最高位か。
藩政の機構が年を経て改革がくわえられて成熟していくさまが見て取れる。