・・・・・・・・・・・・・・・・・ 嫡子五郎義俊(細川家では義有としている)は裏切りをすべしと大船山
に百餘騎の勢を伏おりを窺ひ有ける所に大江杉山の方より義道討死の次第をつぐる。義俊沼田が悪心を聞
ていゝがひなき父の戰死悔かへらぬ事なれども、たとひ沼田悪心にて敵にふゐを討れ落城に及とも一方を
切破り奥三郡一手となりて戰は長岡方に勝利は得させしおもひよらざる戰死なりと、大船山引落細川の本
陣へあしゆら王の荒たるごとくなぎ立/\相戰ふ。跡につづきて大江杉山金谷近藤高屋石子石川等追々に
返り合て相戰ふ。元より馬上の達者ともかけ立/\横合より突出せば長岡の大軍さんざん亂立爰かしこに
討死す。 義俊諸軍に下知していはく所詮追かけ戰ふとも爰にて勝利けつすにもあらず一先奥郡へ引やと
て、甲首百九十餘鎗の穂につらぬき馬にてゆふ/\と餘謝郡弓木村へぞ引かれける。去ほどに弓木は前に
海を受後に王落の高山有てたやすく敵の寄すべきよふなし。奥三郡の諸將通路よくかくて長岡勢弓木山へ
おし寄數度の戰有といへども一度も利を得ず追歸され、さしもの藤孝もすべきよふなし。松井有吉両人を
伊也
もつて和睦を調娘をば義俊の妻に送り一國を両輪に納めんとやくして、將軍家へも此よしを権正せられけ
る。信長公御許容有て天正八九年の両年に一國の騒動納り八十五ヶ城の諸將田邊と弓木とへ随両城へ相勤
む。然る所天正十年正月十日に長岡藤孝使者をもつて年始の加儀をしゆくし次手に義俊へ申入られけるは
老人殊に冬年より殊の外寒氣の痛行末心元なく存る也、かく迄聟舅となりながく一國を納めん印には何卒
一度當城に御入有て忠興興元とも兄弟のまじわりなし被下老人が心を休たまはらば此世の本望此上なしと
て御孫忠隆米田與七郎を相添弓木の城へ被遣ける。義俊使者の趣を聞てすぐに大江杉山へ談じける、大江
がいはく藤孝の御思召御尤去ながらかぶとをぬぎ弦をはづして漸二ヶ年いまだ敵に油断ならずとくかひ詰
腹等の難もあれば一國を長岡にうばわれ末代の恥辱すゝぐべきよふなし、無用の返答しかるべしと申け
る。又杉山出羽いはく大江評定差當る理至極ながら藤孝に計略あれば此方にも術有一旦心よく請合氣に入
らぬ所もあらば三郡の諸將を招聟入のてひに事をはかり田邊の城に入て長岡父子を打取一國のなげきをや
すめんとかたりける。義俊両人が評定我存念に同意せり吉日をえらみ近々入城米田をいつはり返答あれば
米田は悦忠隆の供して歸りける。弓木の城には評定日夜なり、同十三日廻状をもつて奥三郡の諸將を集。
(つづく)
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注記:この記述における沼田幸兵衛は、細川家資料(細川家譜--細川藤孝譜 ・・ 12)では貫幸兵衛とあり間違いである。
後に、中山城は沼田勘解由左衛門・延清(細川藤孝室・麝香の兄)の治めるところとなる。