津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■一色軍記(1)

2021-07-26 08:24:39 | 史料

 一色軍記

    一色家系圖之事
 清和天皇八代之後胤の義家安孫四男式部大夫義國三男足利新判官義康二男上總之助兼義左馬頭義氏の
 嫡子宮内之少輔泰氏之八男有て内四男宮内卿一色の元祖と云ふ、母は判官代之女なり。
一色修理大夫範光 後に入道道猷と號す 一色太郎範氏
 九州のに度々大功有によつて一色父子三人丹後之國を給り太郎範氏には宮津市場に居城させ左馬之頭
 範氏は加佐郡八田に城を築く是建武山の城と名付。
一色左京大夫詮範  式部少輔と號す
 嘉慶年中の頃山名播磨守と戰終に打まけ吉原にしりぞき山名の幕下となり一色の諸將打死多し。
一色修理大夫満範
 後小松之天皇明徳二年山名氏清と戰ひ一圓丹後之國主となる。
一色兵部少輔義範
 伊勢國比畑と戰功多し。又嘉吉三年八月一國に洪水して農民飢る、此時義範一國の貢をゆるし民をす
 ひたもふゆゑ情源名將と順國志に見えたり。
一色左京大夫義直
 應永年中山名宗全に組し御敵となる此時嫡子五郎義春戰死によつていとこ義秀を養とす。ゆゑに一色は
 國主にあらずといへども八十五ヶ城に譜代の諸將を入置一國を押領す一色義遠義直御敵の名を取る。
一色五郎義季  後に改名して丹後守松丸ともいへり
 永生之頃若州武田大膳大夫と成相山にて戰ひ大膳之大夫からき命をのがれ船にて逃る、其時は丹後守松
 丸と號昭公越前御幸之時一色松丸同式部大夫御供なり。
一色式部大夫義道
   (詳細次回) 
             
                WEB参考資料ウイキペディア‐一色氏
                      :武家家伝‐一色氏
                      :宮津へようこそ、丹後の守護一色氏 一色義俊の謀殺
                      :丹後守護・一色氏代々控  梅本政幸

 

 

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