津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■解説・有吉家文書「年中行事抜粋」(十二)御格帳并考蹟志らへ等之内心覚之大旨左之通

2021-07-31 13:07:15 | 有吉家文書

御格帳并考蹟志らへ等之内心覚之大旨左之通

一、免職之節御賞席ハ十年以上持懸御役席ハ二十年已上右同御賞禄其儘被下置儀茂右同断之事
  免職の節、御賞席ハ十年以上持懸け御役席ハ二十年以上、右同御賞禄其のまま下し置かれることも右に同じ事
一、右同御役附之年数を以僉議ニ相成家督より之年数ハ取用ニ不相成候事
  右同御役附の年数を以て僉議に成り、家督よりの年数は取用はならない事
一、禄三千石以上者此着座ニ持席有之弐千石以上者御番方ニは不被落大組附ニ被召加候事
  禄三千石以上の者は此着座に持席有り、弐千石以上の者は御番方には落さず大組附に召加えられる事
一、慶安二年迄ハ旧知ニて同三年よりハ新知と宝暦六年被定候事
  慶安二年迄は旧知にて、同三年よりは新知と宝暦六年定められる事
一、新禄ハ高之大小ニ寄五拾石又者百石其上茂被減候、扨又新古受居候ハ新知より被減候御定之事
  新禄は高の大小により、五拾石又は百石其上も減せられ、又新古の知行を受居れば新知より減せらる御定めの事
一、右同御奉公及五十年候者ハ是ハ御役之年数ニ不拘惣年数取用ニ相成其子御家督之節無相違相続被仰付、旧知之人ハ拝
  領物被
仰付見合ニ候事
  同じく御奉公五十年に及ぶ者は御役に年数に拘わらず、惣年数取用に成り、其子御家督の節は相違なく相続を仰付らる、旧知の人は拝領物を仰
    付らえ見合の事

     但御番方等舊知之人御番無懈怠四十年ニ及候輩ハ以其訳御服被下置候見合有之候事
             但御番方等旧知の人は御番懈怠なく四十年に及ぶ者は、其訳を以て御服下し置かれる見合が有る事 
一、右同御役三十年以上ニ及候輩者跡式無相違相続被仰付繁劇之御役ハ右年数ニ不至共無相違相続被仰付候事
  右同御役三十年以上に及ぶ者は跡式相違なく相続仰付られ、繁劇の御役は右年数に至らず共相違なく相続仰付らる事
一、御擬作は家督之節父之勤五十年子之勤二十年ニ及候得者無相違相続被仰付候、又父之勤六十年ニ而者右同断
  御擬作は家督の節父の勤め五十年・子の勤め二十年に及んでいる者は相違なく相続を仰付けらる、又父の勤め六十年にては右同断
     但父四十五年子二十五年ニては難成候事
     但父四十五年・子二十五年(都合七十年)では成りがたい事
一、藝数ニより無相違被下置候儀左之
  藝数(文武道)により相違なく下し置かれる基準は左之通
     目録 四
     目録 二
     免許 一
     免許 弐
   右之通ニ候得共、稀ニハ一藝ニ而無相違被下置候儀茂有之候事
  右之通ニ候得共、稀ニハ一藝ニ而無相違被下置候儀茂有之候事
一、文学之方ハ目当無之候処、近年者寛政二年杉浦角助家督之節高本敬蔵より達之趣有之、槍術目録一ツニて無相違相続
  被仰付、其節申渡諸事
心懸宜候付ケ様ニてと有之候、其已前右様之儀無之、角助節踏出カト相見候也家督前助教より
  何某学問ハ免許ニ
当り又目録ニ当り候と達出候、尤政府より一々問合ハ無之候併時宜ニも可応事
  文学の方は目当は無いが、近年は寛政二年杉浦角助家督の節、高本敬蔵より達があり、槍術目録一ツニて相違なく相続仰付られ、其節申し渡し
    は諸事心懸宜しきに付このように取り扱われたとこと、其れ以前にはこのようなことはなく、角助の節がはじまりと思われる、家督前助教より
         何某の
学問は免許に当り又目録に当ると達しがあり、政府より一々問合は無く併て時宜にも応ずべき事
一、御切米ハ御取立之面々江被下手取茂月刻ニて候事
  御切米は御取立の面々へ下さる手取も月刻である事
     軽輩之内席禄ニ困而御奉行より奉伺候稜左之通
     軽輩の内席禄に困って御奉行より伺う稜左の通
   歩御使番より歩御小姓列以上伺之
  歩御使番より歩御小姓列以上の伺い
     但御在府之節急成儀ハ不及奉伺上而達尊聴
     但御在府は節急なることは伺い奉るに及ばず上にて尊聴(殿様の御耳に)に達す
一、諸役人段御切米拾石三人扶持之内被減候者并御給扶持被差救候もの伺之

  諸役人段御切米拾石三人扶持の内減じなされる者、并御給扶持差救われるもの伺い
一、御切米拾石三人扶持被下置候者御咎に付而役儀被差除又者病気或者役儀立不申御免之節勤之年数ニ依而御切米之内被
  減候儀且又歩
御使番以下段格御給扶持持懸ニ而役替退役被仰付又ハ拝領物或ハ閉門逼塞遠慮等被仰付候儀者達 尊聴
  ニ不及
  御切米拾石三人扶持下し置かれる者、御咎に付て役儀差し除かれ、又は病気、或は役儀御免の節、勤の年数に依て御切米の内被じなされること
  
且又歩御使番以下、段格御給扶持持懸にて役替退役仰付けられ、又は拝領物或は閉門・逼塞・遠慮等仰付けられたることは、尊聴に達するに及ば
        ない。


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■一色軍記(7)

2021-07-31 07:17:22 | 史料

・・・・・・最早鶏鳴にも成りさむ候へば御心まかせに休足の用意申付べしとて沼田勘解由を呼出し盃に
取方申付られける。沼田心得座敷に出て石川左衛門に談じければ石川、金谷口を揃へ申けるは、其方事一
色家累代の厚恩を忘れ七代の主君をたばかり、自から城に放火し敵を引入夜打を計り譜代諸將を打死させ
けるに依て、とてもひらかぬ運命なりとて御主君義道も御切腹有ける也、其不忠不義のいたづらを忘今日
の取持貌言語どうだんの振舞也、義俊殿の御目通は勿論銘々とても對面すべきおもては持たず罷立と呼り
ける。沼田勘解由は空吹きから/\と高笑ひして申けるは一大事の義ながら汝等如きめくら侍迄忠の不忠
のといふがしほらしさに申て聞せん。先達て天正六年の冬一國平均の事藤孝へ仰付られしは将軍信長公の
にくみ給ふが故なり、迚ものがれぬ一色家の滅亡ながら死殘たる義昭公の浪人此時に逢ひて打死を極美名
を流し申さずんば末代迄足利家の恥辱なりと、共に籠城の心をはげまし廿三度の戦ひ有ける。冬陣にも某
が高名數を知らず此事は君も知り人も知りて、義道御感の墨付とも數通給る、然るといへども一色家のい
せひ日々におとろへ滅亡の時至れば何卒長岡家に近付和睦を調へ義俊殿を取立参らせんと態と我が持口に
放火し敵を引入夜打を計り譜代の主人に腹切らせし不忠不義のいたづら武士があればこそ和睦を調げ御婚
禮を取持一國両輪の大將とはなしける也。此度將軍家の御招有る事を察るに足利義昭の浪人たゝずむ所無
儘に御一族を申立に一色家へ入込み折を窺ひ家名相續の催しせんと相計るの御にくしみ、二つは和睦の後
も心解ず當家と不和合彼是申譯無の事許り重りけるも、皆々己等が忠臣貌の取持なり、口惜の世のなり行
やと云ひもあへず石川の右の肩先切付たり石川も深手ながら抜合て相戰ふ。金谷をはじめ一色宗左衛門大
音声に呼はりけるは義俊殿の一大事此時也。御傍の随ひ参らせよとのゝしる聲の間毎々々の聞えければ、
盛つぶされし若手の侍から若黨足輕以下うへを下へと立さはぎぬ連/\切結ぶ、皆々酒狂のさうどうなれ
ば同士打の者もおふかりける。石川は初太刀の深手に弱りついに勘解由に打たれける。石川文吾秀澄は別
聞えし打物の達者暫くいとみ戰ふ所に誰が下知や仕たりけん間毎の燈火一度に消して闇討に成けるにぞ、
文吾は勘解由を見失ひそこよ爰よと尋れ共勝手覺ぬ敵の城内闇がりのかなしさせんかたなく途方にぞくれ
立たる所に、義俊、金谷を數十人にて取巻相戰義俊も深手にくるしみ給ふありさま見ると、其儘一間に飛
込み石川秀澄是にありと名乗懸て切立る。

 

 

 

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