津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■予習・・徳永洋著「横井小楠」

2021-07-27 11:07:34 | 書籍・読書

 横井小楠に関する本は結構読んだが、地元徳永洋氏の著作「横井小楠」は持っていないのでAmazonに注文した。

                      

 実は、熊本史談会では来月この徳永洋氏を講師にお招きして「横井小楠」をお聞きすることになっている。
ならば御著を読んでおこうという訳である。氏は日本銀行にお勤めだったが、横井小楠研究に没頭されているようだ。
お聞きするところ、横井家の一族であるみたいだ。以下は私の全くの推測話である。
徳永昌孝という人物がおり、その娘・清子が不破家の養女となり小楠の兄時明に嫁いでいる。つまり横井左平太・大平兄弟の母親ということになる。
一方、徳永昌孝の姉か妹か不明だが、徳富美信なる人物に嫁いだ。徳富蘇峰・蘆花兄弟の祖母にあたる。
つまり徳富一敬(長男)の母親だが、四男が生母の実家・徳永家に養子に入っている(昌龍)。
その子が規矩氏で蘇峰や蘆花とは従兄弟となる。そんな時代の人物だが、徳永洋氏はここにつながっているのではないかとひそかに考えている。

本が届いたらこんな余計な詮索はよしにして、精読して、史談会の折には質問もぶつけてみようかと考えている。

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■一色軍記(2)

2021-07-27 06:27:56 | 史料

       一色式部大輔義道之事     注:義俊(義有)の父
 正親町天皇永禄元年父松丸譲り請て領主となり永禄八年將軍義輝公三好は松永が為に討れたもふ、御舎
弟義昭公を取立尾州信長を頼む、其後義昭公心替り頼たる信長を害せんとはかりたもふ、此時義道足利累
代の一族なれば義昭公に從がつて信長公に敵とふ。信長此こと深くにくみ長岡兵部藤孝に仰られ丹後一國
を平均して楯籠る足利の殘徒を亡し一色亡においては丹後の國主となすべしとて、依て天正六寅十一月
藤孝父子、丹後の國上宮津八幡山に陣を取り有一色に随ふ足利の殘徒と相戰ふ。大將分には小倉播磨守野
村将監河島備前守井上佐渡守小倉筑前守日置弾正同小次郎千賀常陸守同山城守手を替いたく相戰ふ。長岡
勢大軍なりといへども數度の戰に一度も利を得ず、明智日向守此よしを告て丹後表の加勢をこふ。又成相
の山徒も頼、其外近江の勢とも追々馳くわゝり一色方大軍になる。長岡の戰ひ勝利なきによつて夜に入
加佐郡大内山へ引しりぞく、又手を替建武山の本城と戰ふ。四部諸將跡追來て戰へども勝負けつせざる處
に十一月廿七日ふり人馬足の立所なく両陣相引にしりぞきけり。
 十二月朔日明智光秀に談じて日置籠城の武將松井四郎右衛門を長岡の軍將に頼むや、將軍信長光秀の頼
に任せ加佐郡大内山へ主從四百豫人入城す。有吉將監是に同意して長岡の陣代となり明智光秀のいはく皆
信長の命なりとことをはかり此時廿三度の軍記府中に一色末葉有て紛失す天正七年正月廿一日一色義道終に戰ひまけて八田の城を引
拂ひ、中山の城沼田幸兵衛が方へしりぞき殘軍を取集奥郡へ引退かんと談じけるを、沼田俄に心替りて松
井有吉へ内通す。長岡の城には評定有て軍士を調中山の城へ向ふ大將軍には嫡男與市忠興舎弟興元松井四
郎右衛門有吉将監牧左近香久山勝右衛門荒木佐助澤田出羽守中島左近中瀬平柳田半助澤村才八米田與七郎
久保三太夫正源寺大炊之助同源太西部傳左衛門和久五太夫坂田吉右衛門都合一萬四千七百豫人二手になり
て相戰城主沼田は兼てより持口破り義道父子に腹切せおのれがこふを立て長岡に降らんと計略を畫けれど
も、身命をなげうち足利の殘徒なれば義道父子の智勇にしたがひ火花をちらして相戰ふ。長岡大軍なれば
うち死のもの多かりけり、かくて二日二夜互に勝負みえざるなり。一色家の諸將は陣代大江越中守高屋駿
河守近藤兵庫守石子紀伊守金谷伊豆守山口弾正石川佐右衛門烝荒須帯刀赤井五郎左衛門大村長門守大和守
出羽守筑後守白杉主税横田源太夫四千七百豫人双方戰といへどもいづれの持口も終に破れず、軍三日に及
ければ松井興長沼田が元へ忍びを入持口に火をかけんとはかる。沼田心得松井が指圖に任せ夜更人しづま
りて持口に火をかけ是を相圖に敵を引入長岡勢思ふまゝの夜打也。一色方はとふてんし亂入て相戰ふ、義
道も秘術つくしけれども大勢に取かこまれ由良川の邊にて討死す。(つづく)

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