中村一氏の死去後、徳川家康は嫡子・一忠を11歳ながら伯耆国(17.5万石)に移封を命じ、叔父の横田村詮を後見役、執政家老として同行させた。
これに対し、旧家臣たちの中に反発する者が有り、これらが一忠に甘言を弄して村詮を謀殺させた。
このことに激怒した家康は首謀者二人を即切腹させ、関係者を処分した。一忠は死を免れたが、20歳で死去し伯耆中村家は断絶した。
熊本には、中村一氏の家老を勤めたという薮伊賀守の子・内匠を初代とする家系四流が存在する。
藪内匠は一氏の没後しばらくしてから中村家を退転しているが、同時に彼を頼った中村家家臣を同道して京都で牢人となり、牢人頭を勤めたという。
どういう伝手があったのかはよく判らないが、内匠は豊前の細川忠興に12,000石という高禄で迎え入れられた。
その折、同道していた中村家の旧家臣たちも豊前入りしている。
ところが元和五年八月に入り内匠は病となり、治療のために京都に登ったものの京の地で死去。
藪家先祖附は残された中村家旧家臣について「兼而奉願候様子ゟ育置候牢人拾七人内匠死後ニ被召出候」と記されている。
中村家旧家臣の細川家仕官を「奉願」していたことが判る。12,000石は召上となったが、子の図書と市正が迎えられ、後それぞれが分かれて都合4家となって明治に至った。
中村家旧家臣の17家がどのお宅なのかは、現況掌握できていないが、細川家仕官の経緯を知る格好の記述が残されていた。
細川家正使では伺えない真実がこのような資料を深く読むことで知ることが出来る。感謝・・・