実は、細川家と南禅寺とはどのような関係があるのかちょっと気に成っている。
これは資料を読み返さないと迂闊にはここに書くことはできないが、私が唯一承知しているのは、忠興の二男興秋の京都出奔に絡んだ話である。
慶長九年の暮、弟・忠利に替りに江戸證人として父忠興に指名された二男・興秋が、出発後京都に滞在後しばらくしてから剃髪するという大事件が勃発した。
「興秋の出奔」事件である。
忠興の従兄弟・英甫永雄(幽齋の妹・宮川尼の子)が建仁寺十如院の住持であったが、この時はすでに亡くなっていたが、興秋はここを宿とした。
いつまでも江戸へ立とうとしない興秋に対し、お付きの長岡肥後が出発を促して正月十二日に京を立つことになった。
しかしながら、翌日肥後は剃髪した僧衣姿の興秋の姿を見て驚愕・呆然とするのである。
後、長岡肥後と父・豊前は忠興により誅伐されるという悲劇が起きた。細川家の黒歴史である。
興秋はその後どこに蟄居したのか、「戦国細川一族・細川忠興と長岡与五郎興秋」の作者戸田敏夫氏もご存じないようである。
答えは「慶長日件録」の慶長十年正月十二日の条にあった。ここでは「與五郎髪を切り南禅寺に蟄居」とただそれだけが記録されている。
「慶長日件録」とは、明経博士舟橋秀賢の日記である。幽齋の生母は清原(船橋とも)宣賢女、秀賢は宣賢からすると四代孫となる。
秀賢は興秋との関係は次のようなものである。
宣賢ーーー+ーー業賢ーーー枝賢ーーー国賢ーーーーーー秀賢
|
+ーーー女 細川幽齋
‖ーーーーー藤孝ーーー忠興ーーー+ーー二男・興秋
足利義昭 |
+ーー三男・忠利
この船橋秀賢の記述が正しければ、建仁寺十如院で剃髪した興秋はその足で南禅寺に赴いたことになる。
南禅寺の塔頭かと思われるが、これがよく判らない。まだ健在である祖父幽齋の援助が当然考えられる。