津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■建仁寺? 南禅寺?

2023-01-12 10:34:01 | 徒然

 実は、細川家と南禅寺とはどのような関係があるのかちょっと気に成っている。
これは資料を読み返さないと迂闊にはここに書くことはできないが、私が唯一承知しているのは、忠興の二男興秋の京都出奔に絡んだ話である。
慶長九年の暮、弟・忠利に替りに江戸證人として父忠興に指名された二男・興秋が、出発後京都に滞在後しばらくしてから剃髪するという大事件が勃発した。
「興秋の出奔」事件である。
忠興の従兄弟・英甫永雄(幽齋の妹・宮川尼の子)が建仁寺十如院の住持であったが、この時はすでに亡くなっていたが、興秋はここを宿とした。
いつまでも江戸へ立とうとしない興秋に対し、お付きの長岡肥後が出発を促して正月十二日に京を立つことになった。
しかしながら、翌日肥後は剃髪した僧衣姿の興秋の姿を見て驚愕・呆然とするのである。
後、長岡肥後と父・豊前は忠興により誅伐されるという悲劇が起きた。細川家の黒歴史である。
興秋はその後どこに蟄居したのか、「戦国細川一族・細川忠興と長岡与五郎興秋」の作者戸田敏夫氏もご存じないようである。
答えは「慶長日件録」の慶長十年正月十二日の条にあった。ここでは「與五郎髪を切り南禅寺に蟄居」とただそれだけが記録されている。
「慶長日件録」とは、明経博士舟橋秀賢の日記である。幽齋の生母は清原(船橋とも)宣賢女、秀賢は宣賢からすると四代孫となる。
秀賢は興秋との関係は次のようなものである。

      宣賢ーーー+ーー業賢ーーー枝賢ーーー国賢ーーーーーー秀賢
                           |
          +ーーー女  細川幽齋
                                   ‖ーーーーー藤孝ーーー忠興ーーー+ーー二男興秋
                            足利義昭                         |
                      +ーー三男・忠利

この船橋秀賢の記述が正しければ、建仁寺十如院で剃髪した興秋はその足で南禅寺に赴いたことになる。
南禅寺の塔頭かと思われるが、これがよく判らない。まだ健在である祖父幽齋の援助が当然考えられる。

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■怡園とは

2023-01-12 07:33:11 | 徒然

 「怡園」(いえん)とは細川護貞さまの雅号である。御著に「怡園随筆‐茶・花・史」がある。
又「怡園」とは、京都南禅寺近くにある、かっての細川家の京都別邸である。怡園(南禅寺別荘群散策29)
「怡園」の意味については、京都府京都市左京区 怡園(旧細川家別邸)庭園というサイトに詳しい。
明治のころの建物らしいが、所有者が幾たびも変わり、昭和初期に細川家が所有する処となった。
護貞様は京都大学に進まれているがここが京都でのお住まいではなかったのか?
上のサイトの説明では、「庭園を楽しむ—施主の要望に応えた植治の作庭」とあるが、護貞さまはここで師の狩野君山の教えを受け、
また当時の在京の碩学と交流されているから、そのような事も「怡しみ」の一つであったことは間違いない。
そう考えると、このお住いの名前をご自分の雅号にされたということで合点がいく。(そうでなかったら赤恥ものだが・・・)



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