(一財)熊本城顕彰会発行「熊本城」復刻80号、村田眞理氏の「熊本年中圖絵」に見る熊本城下町の行事(二)から引用
正面に見える建物は家老・長岡(米田)監物邸
正月の十四日、二の丸御門前の勢屯りで行われた勇壮な左義長の様子が描かれている。
村田真理氏の解説には「左義長正月十四日、其ノ際ニ至レバ家中の子弟良馬を求め競テ荒乗シ武ヲ試ム 武士之家風ナレバ
婦女子に至迄後ルゝ事ヲ恥ツ 馬数多キ時ハ三四百ニ及所謂古の馬揃ナリ 此事兼而他邦江も聞エ其日ニナレバ自他見物拝衆
垣ヲ成シ誠ニ天下の壮観ナリシガ 近年ニ止ミテ今纔ニ遠在郷士の左義長共残ルトいへ共其聴ルナシ」とある。
多くの馬が控えていている中、燃え盛る火の柱に向けて馬で駆け入る人たちの姿が見える。中には鎧兜に身を固めた人物もある。
多くの人が見物に集まり、百間石垣の上からも覗いている人たちが見える。正面の邸宅は三卿家老の一・米田家の屋敷である。
ずっと左手に細川刑部邸があり、宇土支藩の藩主などもこの屋敷内から見物したようだ。
「寛政九年十二月御達」には次のように有る。
一左義長之節、御家中之面々馬を被試候儀、前々より有之候處、近年は餘計之馬數相成、藝術も相進候付ては、専高火ニ
馳入相互ニ無遠慮乗形有之様子相聞候、武藝之稽古ニ候得は若手之面々血氣ニまかせ、前後を被争、右之次第ニ可有之
候得共、混雑之餘りニは怪我等之儀も難計事ニ付、其用捨も有之度事ニ候、間二は當合等も有之様子相聞、自然右様之
儀ニ付強キ怪我等有之、往々御奉公之障りニも相成候儀致出來候ては、對上候ても難相濟事ニ候間、相互ニ随分遠慮を
可被加候、勿論平日之稽古遠馬之節も其心得有之、惣躰作法能乗方有之候様、父兄は不及申、其師範/\よりも委敷教
示歟有之旨御用番被申聞候間、左様御心得御同役え御通達、御組々えも可被成御達候、以上
十二月 御奉行中
左義長の歴史は古いものだが、この畫の様に馬が火を目掛けて駆け込むようになったのは、「犬追物」の復活に伴うものだという。
この事は「犬追物」を復活させた斎藤芝山(権之助)のついての「肥後先哲遺蹟」の同人項に次のように記されている。
一、左義長に、馬を入る事、斎藤氏、犬追物を起されし比より初めたり、次第に盛になり、又其前は、馬場乗の外、馳馬
などする者も無るし由、是も齋藤氏の功と聞えし(伊藤権七逸信雑記)
犬追物の復活の日の定かなる時期は判らないが、天明の初めから着手の記事が見え、天明四年には斎藤芝山と江良某が師範に任じられている。
左義長も天明の頃からこの様な馬の馳入りが見受けられたことになる。
かってのお正月の風物詩どんどや(左義長)も、お城下では家が建ちこみ学校の校庭などで催される位で、見られなくなりつつある。
しかし地方では、まだ勇壮な火柱を上げるどんどやが見受けられる。いつまでも続いてほしい風物詩である。