林平格氏の御赦免開建山之覚である。林平格は英三家の6代目。
持座・長岡組 六百石で寛政四年七月(番方)~寛政八年十二月 高瀬町奉行・穿鑿頭ニ転
文化十三年十一月(三拾挺頭)~文化十四年四月 鉄炮五拾挺頭
文化十四年四月~^文政四年五月 奉行副役
上記経歴からすると、奉行副役を辞めた直後あたりの記録である。
御赦免開ー武士による開発、農民の野開きには反あたり六匁の運上が懸けられたが、
武士の開発地には税が免除されたことからこう呼ばれる。
建山ーーー武士の願い出による植林
第一項にある「畑開」壱町壱反 合志郡竹迫手永 鳥栖北村とあるが、この鳥栖という地名は、「隈本の消えた地名」で紹介されている現在では存在しない地名である。
鳥栖四村「本村」「辻村」「東村」「北村」が合併した。現在地でいえば合志市野々島である。
全国十三カ所に在ったという部民が五ヶ国に存在して、鳥を捕獲飼育して朝廷に献上する「鳥取部」として生業としていたという。
第二項は立山(建山)、右同大津手永 湯舩村は現在の菊池市旭志麓地区である。「湯船の溜池」が有名である。
第三項も立山(建山)で、上益城郡鯰手永 砥川村とある。ここは現在の益城町砥川だが、鯰手永に入っていたとは知らなかった。鯰にほど近い地区ではある。