■晩年の弥平兵衛・市之進
松平忠吉公(家康四男)の関ケ原での負傷した傷がもとで慶長12年(1607)28歳で死去した後、市之進の覚書には「諸州鹿狩場」
「鉄炮矢の仕立てを退く」「尾州立退」とだけで、詳しい記述はない。
晩年の弥平兵衛の出来事を次のように記す。
そして市之進も「右之通段々敵認候故 拙者儀も亡父先祖之儀 不致沙汰 兼々無筋目之躰ニ而 寛文元年御奉公ニ罷出之」と役を終えている。
この「亡父先祖之儀 不致沙汰 兼々無筋目之躰」この一つ一つの文字に苦悩する市之進を感じます。
喜多村家が背負う負のイメージ、晩年の弥平兵衛・市之進にも100年も経ってもまだ逆臣の負い恐怖がつきまとっているように思います。
市之進の覚書からも喜多村弥平兵衛は市之進の父であり、光秀の末子(内治麻呂)として、輝かしい人生を送った、しかし晩年の父は、
光秀の子孫として苦しみ亡くなったものと私は感じます。市之進がこの覚書を記する前に、喜多村家の先祖書を淡路守(蜂須賀氏)を通
じて公儀へ指上たと記しています。
以上の様に先祖書を幕府に提出するにあたり、徳島藩の人たちのかかわりを市之進が詳しく記しています。
この先祖書の提出にあたり次の文がひろえます。
一、天下一統触之節 = 綱吉就任の年(延宝八年・1680年)
ニ、私儀阿州に居 = 市之進は徳島に居
三、家老賀島主水 = 藩家老(賀島重玄)
四、淡路守 = 松平淡路守(4代・蜂須賀綱矩か)遣いが幕府に先祖書を幕府に指上げた
この先祖書はキーワードの4項目から綱吉就任の年延宝七年か八年に提出され、このあと市之進の覚書が書かれたと思われます。
本能寺の変から100年、市之進が役を退いて20年、この覚書も最晩年の手記だと思います。
【追記】
これまで喜多村弥平兵衛については喜多村保光の娘と光秀での間の子であることは玄琳の系図で知られていましたが確かな
資料がないため俗説としての弥平兵衛でしか知られていませんでした。
この市之進覚書によって、父の出生から晩年まで孫の確かな記録により明らかになりました。
孫の市之進もこの覚書により市之進が弥平兵衛(内治麻呂)の子であることも判り、徳島藩での活躍の記録にある確かな人物
として評価されると思います。
この覚書は光秀研究の一助になる事と思います。
次の方々のご協力をいただきました。深く感謝を申し上げます。
解説 紺野氏 菅野正道氏(元・市博物館)
徳島大学付属図書館・国見裕美氏
渋谷和邦氏
終り 筆者:高橋 仁
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尚、タイピングに関しましてはお預かりした草稿に忠実に行ったつもりですが、若干の差異もある事をご容赦いただきたく存じます。
挿入の写真やタイピング記事など位置関係、順番などが主であり、文章に関しては100%万全ではありませんことも申し添えます。
津々堂