津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お安く読むー推薦・細川家を知るための必読書

2023-01-20 11:06:49 | 書籍・読書

  司馬遼太郎の著「春灯雑記」では、「護貞氏の話-肥後細川家のことども」という86頁にわたる、長大な項が立てられている。

1991年が第1冊なのだが、司馬氏は20年前の事だとしておられるから、1960~70年代の事だと思われるが、熊本で細川護貞さまと会われ、貴重な時間を過ごされ結果としてこの項が誕生している。
その時期に思い到る事があるが、多分新聞社の主催による講演会の開催であったろう。
私は出かけていないが、なぜか新聞の切り抜きが残っていた(現在は紛失)。
話は多岐に亘っている。然し内容のそれぞれが護貞さまの事、肥後細川家の事を鋭い洞察力で表現されており、寸分の違和感を感じさせない。
「護貞氏は躯幹まことに長大である。温容ではあるが、容貌の特徴は、刃でするどく切れを入れたような一皮の上瞼にあるといっていい。」と護貞さまを紹介する。
まさに膨大な愛読者を有する作家の表現力に「まさにその通り」と申しあげたい。
この本(ハードカバー)は数冊購入して、読んでほしいと人様に差し上げたことがあるほどの、私の愛読書でありいつも目の前の棚に鎮座している。
いまでは安野光雅氏装丁のこの様な文庫本になっている。お安いですからお買い求めいただきお読みください。

                     春灯雑記 (朝日文芸文庫)

 

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■光秀の孫の記録‐喜多村市之進覚書ー4

2023-01-20 07:01:48 | 人物

                        ■北村出羽守宛 筒井順慶書状

 この伊賀越えのあと六月八日付で、出羽守宛の筒井順慶の書状が喜多村家(所持仕候)に届けられる。

                       
                                         喜多村出羽守宛筒井順慶書状
       先日徳川三河守伊賀越えの節、人数を出して両国に於いて働き、徳川殿忝く通り偏に知謀の故である

                                           

  この書状の同文の写しが2015年出版の「明智一族・三宅家」の史料に収録されている。
 (市之進がこの書状を写し書きしていることは、原本の書状は喜多村家に保管されていたと思われます。)

       ■伊賀越えの功績

  筒井重慶からは知行5,000石、徳川家からは服部半蔵使者により、刀・備前大兼光、馬一疋、黄金100両が届けられた。
  特に伊賀越えの途中、家康より御手自ら天国銘の小脇差を出羽守へ「被下置候」付け札までついた、著名な刀を喜多村家で保管されて
  いたことが判ります。
     銘・天国(アマク二)古刀一人 大和・大宝頃(日本元号701~704年 文武天皇のころ)

  付け札 往古安倍貞任御退治之節 源ノ頼儀公江従天子●●候
      宝釼之旨御応答御座候由旧記有之候

       ■父 喜多村弥平兵衛の功績

覚書で父の出生については
     「亡父喜多村弥平兵衛儀実者明智日向守光秀末子ニ而候」

                           
 母について
     「日向守 後妻者 喜多村出羽守娘」
と記し、亡父弥平兵衛尉此後に出生と記す。

                                                     
 出生後、出羽守家で育てられ、出羽守病死のあとは譜代筋の者に十九歳まで養育されていたことが判る。
 十九歳に成った弥平兵衛は、慶長五年(1600)の関ケ原合戦の記録から始まります。
 この戦いに、徳川秀忠の同腹の弟・松平忠吉(家康四男)に仕えた。その経緯は「覚」には記されず・・・
 この初陣の様子は  ❍軽井沢 遠江
           ❍松浦三郎兵衛
           ❍忠吉公
           ❍亡父弥平兵衛  等の四者の戦況を市之進が書き留めています。

 次は父の関ケ原での様子を市之進が写している文です。
   関ケ原戦功
      御先手備に召加される。(21歳)
      御証文 11,750石
      忠吉公 両御所様に加増を所望 6,000石増
      200石与力・25人 与力懇・16,000石
      外に鉄炮同心 50人豫   

                   

                   

                  この初陣で多くの武勲をあげ16,000石に取り立てられと市之進が記しています。

      ■市之進が知る本能寺の変

   市之進の祖父は当事者の光秀、その末子だった父に「本能寺の変」はどんなかげをのこしたのか、市之進は300年前
   覚書でこうのべています。

                             

                               
                                         翻刻文の上段中央部あたりから、下段四行目辺りまでの原文

                               
            上記翻刻文に該当する訳文(訳・渋谷和邦氏)

 

    森蘭丸と信長の密談を聞いた家老の藤田伝吾の娘「いた」の話が発端で、闇討ち謀反と進んだ事件だとすれば、
    謎が多い本能寺の変の一因に。
    本能寺の変に関する話から、市之進の父・弥平兵衛の晩年の話にうつります。

 

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