「喜多村市之進覚書」のタイピングに励む一方で、朝の散歩も怠らず、大好きな嵐山光三郎の「芭蕉」論や、夏目漱石の縁者が語る関係の本を
読んだり、某家の先祖附の読み下しを並行したりと忙しい。
ふと思いたって古文書を引っ張り出して、判らない文字の判読に思いがけない時間を過ごすこともある。
史談会の1月例会の予約受付の電話も入り始めたので、電話も気にしなければならない。
処で市之進の曽祖父・喜多村出羽守は家康の「伊賀越え」に際し約2,000の手勢を以て援助し、その功として11 , 750石を与えられたと覚書は記す。
娘は光秀の側室(後室とも)となり、光秀の末子・内治麻呂を出産、これが後の弥平兵衛であり、市之進はその嫡子である。
喜多村出羽守保光は拓植(つげ)城主だと記されている。現在の三重県伊賀市柘植にある古城で現在では「福地城」と呼ばれているらしい。
伊賀市の説明などによると、福地氏が城主であったからだとしている。柘植の有力な国人「柘植三方(日置氏・北村氏・福地氏)」を構成
した氏族だともある。北村氏=喜多村氏なのであろう。
「喜多村市之進覚書」によると、家康一行を襲撃したのは福地但馬であり、これに喜多村出羽守と家老服部兵部が家康を護り攻したと記す。服部兵部が福地但馬に鑓で疲れて死に、但馬を出羽守がこれも鑓で突き殺したという。
そうすると、柘植三方が一枚岩ではなかったことが理解できる。
処で、偶然なことに松尾芭蕉の先祖は「柘植三方」の一族だそうで、この城跡を芭蕉公園と名付けられているらしく、句碑及び生誕碑を
建て後世にとどめているという。
「柘植三方」と松尾氏の関係はどういうものなのだろう。嵐山先生のご高説の中にあるのかもしれないが、まだ見いだせないでいる。
北村家の覚書といい、芭蕉の不思議な略歴といい中々ミステリアルである。
■覚書には
一、祖父(喜多村出羽守保光)宛の筒井順慶からの家康伊賀越の礼状。
六月八日付で市之進が家伝にある礼状を写したと考えられる。
ニ、祖父・喜多村出羽守保光が供した、家康の伊賀越えの記録。
三、かつて松平忠吉(家康四男)に供して、16,000石を賜った父・喜多村弥平兵
衛の青年期の関ケ原の戦いを恩賞。
四、晩年の父、祖父光秀謀反の陰に悩む父と明智家の子孫としての市之進。
五、喜多村家の先祖書をまとめ幕府に提出までのいきさつ。
■覚書のまえに 喜多村弥平兵衛
市之進の父喜多村弥平兵衛について
私の知るのは「肥後細川藩拾遺」にある喜多村家伝 明智家譜及び明智系図にある光秀の末子内治麻呂です。
明智内治麻呂 光秀北室者 伊賀國城主・喜多村出羽守保光女
天正十年元旦 男子誕生 明智内治麻呂 とある。
これは寛永八年、光秀五十回忌に妙心寺塔頭(の僧)玄琳が、弟の喜多村弥平兵衛に贈った系図と後書にあります。
玄琳の系図の中に男子は玄琳の他五人が書かれ、その内山崎合戦で坂本城で自害横死と四人が死に( 肥後細川藩拾遺)、
残る一人は今回新発見の「市之進覚書」にある市之進の父・明智内治麻呂のちの喜多村弥平兵衛がいます。
以上のように弥平兵衛について私が知る情報はほとんどありませんでした。
■明智一族 三宅家の史料
「清文社出版」のサイトから
三宅家の史料では、喜多村弥平兵衛は光秀の末子で、光秀の後妻の喜多村出羽守の娘が産み幼名を内治という。
坂本城から逃れ出羽守の養子として育てられた、光秀の子であることを隠し、徳川秀忠の弟・松平忠吉(家康四男)に仕え、
関ケ原の戦いで手柄を上げ16,000石拝領とある。
この三宅家の資料の内容は、市之進の覚書の内容と同じで、市之進がこの覚書を記述した年代は綱吉(将軍職)就任の
1600年以後、市之進が役を退いた間にかかれたと思われます。
三宅家の史料より市之進の覚書が喜多村家の本家にあった資料をもとにかかれたと私は推測します。
■この「市之進覚書」から喜多村家の家族に関する記述を拾う
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・覚書の終りの行に、喜多村市之進と自筆の署名で結んでいますので、作者は市之進、その他先祖書提出の際に「市之進所
持之判物」とある。
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・市之進の父については、亡父弥平兵衛尉と記しているので、父は喜多村弥平兵衛
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・市之進の母については、喜多村出羽守娘と記し、日向守(光秀)の後妻者とも記している。
・弥平兵衛と父(光秀)に関しては、「喜多村弥平兵衛儀 実者明智日向守光秀末子(内治麻呂)ニ而候」と記してある。
(以上の単語は覚書から)
■市之進からみた家族関係を図にする
(祖父)明智光秀ーーーー+ (父)喜多村 (子)喜多村
|ーーーー 弥平兵衛 ーーーー 市之進
喜多村出羽守保光ーーー 娘ーーー+ (明智内治麻呂)
(祖母)
同上「市之進の家族図」と喜多村家伝‐明智系図所収・続群書類従にある親子関係は同じである。