津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■古文書の海は深く限りなし・・

2023-01-18 15:57:29 | 徒然

            古文書の海のふかさや 去年今年  津々                    

 時々ひっ切れ紙が、本の間から栞代わりに顔を出す。
EXCELをもっと極めたいと思い「らくらくマスター本」という随分古い入門書を引っ張り出してみたら、これが出てきた。
随分下手な句だが古文書に親しみ始めたころだろうか、「もうちょっとすらすらと読みたい」と思うお正月の決意みたいなものが伺える。
小賢しい話で古文書の海の深さは永遠で、大甘の話である。
コロナは八波か九波か知らないが、大いに乗り越えて図書館通いをしてまた良い史料に出合い、読み下しに励みたいと思う。
そして、翻刻したものの意訳を上手になりたいと、近世史に係わる書籍を読み込みたいと思っている。
戒めとして、PCの差支えない場所にテープ止めした。


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■光秀の孫の記録‐喜多村市之進覚書ー3

2023-01-18 07:23:06 | 人物

        ■祖父・出羽守保光の伊賀越え

      ウイキペディアでは光秀の正室については、正室の他俗伝として喜多村保光の娘という側室がいたと記してある。
            注:実は曽祖父だが、父・弥平兵衛ガ保光の養子となったため
      この市之進の祖父(母方)喜多村保光が登場するのは、「娘の親」としての喜多村保光であって、「神君の伊賀越えに供した」
      喜多村保光としての名は初めて聞く名前ではないでしょうか。
                                              
      この「市之進覚書」の冒頭の筒井順慶から、喜多村出羽守宛の礼状でも明らかなように、祖父の伊賀越えは喜多村家一番の
      栄誉の事でした。
      先祖書提出の際にも、伊賀越えは藩(阿波藩)の人からも公認された事実の様で、次のように記されています。
      大権現様伊賀越被成候節 出羽守忠節之趣以書付相尋候 三度共委細慥に書付返答仕候・・・少々も不審無しと淡路守以下
      仕置人・目付・触使人各人が吟味 公儀に指上た とこの覚書にもかかれています。
      この伊賀越えの記録は文・道中の様子は、喜多村出羽守以下家臣からの伝聞を吟味して書き取り、市之進が写した文では
      ないかと思います。
      市之進の記した伊賀越えの文と、これまでいわれている市之進の「点の地名」に添ってたどってみたい。

         ■伊賀越えのルート

      「市之進覚書」では日付・ルートはないが、伊賀から伊勢まで五点の地名がかかれている。
         ① 三田坂下
         ② 拓植
         ③ 鹿伏兔
         ④ 伊勢路
         ⑤ 白子

      市之進覚書の翻刻文をはさみながら紹介します。
      (翻刻は仙台市博物館紹介の紺野氏、現代訳は渋谷和邦氏)

                           

                         

                        

                                 


                                ① 三田坂下
                    喜多村出羽守が供するのは、本能寺の変三日目 六月四日 拓植城主・出羽守保光としての伊賀越えは三田坂下から始まる。

     この「三田坂」は滋賀県と三重県の県境桜峠をこえ、丸柱から諏訪・三田を通る国道422号線上にある峠。
     現代の地図上でも道幅が狭く曲がりくねる難所である。
     近年諏訪・三田間はバイパスで結ばれた。

     三田坂之下ニ被立御帰御控被成候 出羽守儀弐千計之人数召連 山路を押 為御迎罷出候

     この三田坂峠で喜多村出羽守は家康一行を迎える。

          ② 柘植城

     一行は三田峠を経て大和街道(国道25号)に入ったと思われる。
     下柘植・上柘植と現在も残る地名からも、柘植城主・出羽守の領地内を安全に通過したと思われる。

        ❍祖父出羽守の城は街道筋
        ❍伊賀越えの徳川一行のリーダーは兵部少輔(井伊直政)
        ❍出羽守は惟任日向守舅で、嗜・文武・律儀第一ノ勇者 
                            (市之進文)
     いよいよ一行は伊賀と伊勢の境 鹿伏兔峠に入る。

          ③ 鹿伏兔(かぶと)

     鹿伏兔は三重県伊賀市と亀山間の標高300mのところにあり(加太は鹿伏兔を当てる)鈴鹿峠が開かれる前は東海道が通り、
     古くからの難所の地であった。
     家康の前で喜多村出羽守家老の服部兵部懸塞と、一揆の大将・福知但馬、出羽守と三者の戦いの様子を覚書は生々しく記す

        一大権現様出羽守江御目見被
         仰付 御礼被仰聞 供奉仕於
         所々相働家来数多討死仕候
         鹿伏兔辺ニ福地但馬と申
         一揆之大正又罷在
         大権現様を掛目馳来候処
         出羽守家老服部兵部懸塞
         但馬と兵部相戦処 兵部を
         但馬突殺申候 則出羽守懸合
         槍下ニ而但馬を討捕申候 此乱ニ
         大権現様御鎧ニ鉄炮二当候
         由申候 

      この戦いで「大権現様御鎧ニ鉄炮二当候」と、此の道中一番の脅威にさらされた。この後伊勢路に入る。

          ④ 伊勢路

        一大権現様供奉仕 出羽守伊勢
         路迄罷越申候 道中被爲召候
         御馬ニ遠矢中り草臥申候ニ付
         出羽守乗替之馬指上 被召替之
         跡 其所者御敵仕者無之故
         御按申上候処 御傍に被寄召

      「其所者御敵仕者無之故御按申上候」と、伊勢路に入り安堵の思いを伝える。
      家康、馬での道中、「草臥申候」と伊勢路に入る三日間の疲労が一気に出たかもしれない。
      この伊賀越えは、馬と鎧をつけての道中であることが判る。
      「出羽守乗替之馬指上」そして白子へ

          ⑤ 乗船地は勢州白子
      
      伊勢路に入って一行は白子で乗船する。船に移動し鎧を脱いだところ、家康の鎧の内に「打返鉄炮候鉄炮之玉二、船中に落候」
      と記す。
         勢州於白子御舟ニ被爲
         召 御鎧御脱被成処 御鎧之内ニ
         打返候鉄炮之玉二 船中ニ落
         候由申伝候

      そしていよいよ船で白子から三河大浜に向う。

      (注)「申伝候」と記しているので、後日(伊賀越えのあと)喜多村家に入った情報を書き添えたのではないか?

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