津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「□鼻□石」て?

2023-01-17 14:02:42 | 熊本

 悪友が電話をしてきた。虚礼廃止で年賀状は来ないから、「今年もよろしゅう頼むばい」が挨拶。
話によると勤めていた会社のOB会が催されたらしく、久しぶりに上京したらしい。「数の少のうなってね・・」と一言。
そのついでに、熊本出身の友達にもあってきたという。
その時の会話に「阿蘇に□鼻□石」てあってばってん(有るそうだが)、酒飲んどったけん何のことやら判らんまま帰ってきたが、あらなんのこつかい(あれは何のことだろうか)?、という。

 急に言われても返事に窮する。
「遠見が鼻」と「象の鼻」くらいは判るし、「的石」くらいの地名しか思い出せない。
電話を切って熊日選書の「隈本の消えた地名」を開いてみたら、「阿蘇の七鼻」という記事があった。
その中に「七鼻八石」と記されていて、是が悪友が聞いてきたものらしい。
阿蘇郡誌には「古來阿蘇谷の人々は七鼻八石と称すれどもその何故かを知らず」と記されているという。
阿蘇外輪から内側に突出した処を「鼻」というようだ。「石」については解説がない。
「七鼻八石」と判明したから、ググってみると、「肥後国 くまもとの歴史」というサイトに阿蘇七鼻八石(あそななはなやいし)の記事を見つけた。
一覧表があり、疑問が氷解した。メールで連絡をして一件落着と相成った。

 昭和27年高浜虚子は阿蘇を訪れた。そして前年亡くなった熊本の弟子の宮部寸七翁の為に次の句を捧げている。

      君がため遠見ヶ鼻の竜胆を

私は現在「大観峰」と呼ばれる場所が「遠見ヶ鼻」という雅な名前であったことを知って、この名前が消えたことを残念に思っている。
これもついでに教えてやると、「よか歌ね、覚えとこう」と・・・・

=付け足し=
虚子の「小国」に寄せての句 小国町南小国村芋車 も大好きな句である。
これも教えると「わあ小学生の俳句のごたる、これも良かねえ」とご満悦だった。

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■寛永15年(1638)天草四郎 島原の乱で討死した侍衆を弔う施餓鬼の案内 細川藩家老長岡是季(花押)回状

2023-01-17 08:10:46 | オークション

   寛永15年(1638)天草四郎 島原の乱で討死した侍衆を弔う施餓鬼の案内 細川藩家老長岡是季(花押)回状

                           

 例年熊本市中央区横手の安国寺では、毎年七月六日、関係者が出席されて「四つ戦難供養」の法会が行われている。
     ■有馬陣戦死各霊之墳(島原の乱)
     ■上総沖溺死者供養塔(ハーマン号沈没)
     ■小倉陣戦死者供養塔(第二次征長戦争)
     ■東国戦死之碑   (戊辰戦争)

 今回のオークションの文書は、その先駆けとなった「島原の乱」後に開催された戦死者を弔う施餓鬼の案内書である。
案内者は「家老三人」とあり、その内の一人・二番家老長岡監物が署名している。
翻刻文がつけられているが、これによると、開催日は七月十三日とされていることが判る。
また、翻刻文にある本文の前半部が写真紹介されていないのが残念である。現物にこれが存在するのかどうかは問い合わせが必要であろう。
また宛名の名前については一部誤りがあったり、9名であるべきところが10名に成ったりしている。
出品者提供の翻刻文を手本に判読不明部分その他、当方もチャレンジしてみようと思う。
高額になりそうな学術的にも貴重な資料ではなかろうか。

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■喜多村市之進覚書ー翻刻文・2

2023-01-17 06:49:51 | 人物

        一大権現様御上京 信長公へ
         御対面被成 依御指図
         梅雪御同伴 泉州堺地
         為御見物御越被成候 然処ニ
         件之存念故 於本能寺日向守
         奉弑信長公 此段境地へ
         相聞候 早合戦可被成候と
         御人数不足故 御帰国以後
         可被思召旨御触被成候
         大権現様江日向守訳依有
         御忠節微勢与被仰出□(虫喰)
         合戦御延引 流石之御知
         者之有関東迄致沙汰之由申候
        一本街道御通被成儀 伏見
         御遠慮 梅雪御同道大和
         路へ御懸 伊賀越被成候節
         梅雪者他力を不頼 手勢迄ニて
         御通故 於途中討捕申候
         覃聞召 ●御通難被成旨
         御考 井伊兵部少輔殿へ被仰候
         伊州者山国ニ而険阻多 其上
         伊賀ものは下賤共不惜一●
         ●武者多由候 御手勢計ニて
         御通被成候● 大事ニ被思召候
         堅守義利頼母敷有之間
         敷歟 御頼被成度旨 上意
         之処 兵部少輔殿被仰上候者
         喜多村出羽守与申城主海道
         筋ニ罷在候 嗜文武 律儀
         第一ノ勇者由承候 早惟任
         日向守舅ニ而御座候条 御頼
         被成者前以有御仕間舗由 尤
         被思召 急以使者件之趣被
         仰遣候へ者 御用ニ御可立者と致
         思召 御頼被成段本懐ニ奉存候
         殊ニ日向守と御入魂之由候条
         安等と御請申上候 道筋無
         御心許被思食 三田坂之下ニ被立
         御帰御控被成候 出羽守儀弐千
         計之人数召連 山路を押 為
         御迎罷出候 白地ニ八本立之
         矢車染入之紋付之籟八本         
         大権現様上覧被成 向ニ為見
         軍兵者定而喜多村出羽守可
         為人数八本之白籟同ニ移
         輝之八幡者八ノ旛之書也 源氏之
         氏神 殊更弥陀之依為
         跡常ニ八幡大菩薩与奉
         信故 今度之大事御援被成事
         眼前也 出羽守早々請合 鬮ニ
         成事是偏ニ八幡之御霊験
         ニて候間 皆々心強存 向之幡を
         八幡大菩薩与奉存之
         上意之由申伝候
        一大権現様出羽守江御目見被
         仰付 御礼被仰聞 供奉仕於
         所々相働家来数多討死仕候
         鹿伏兔辺ニ福地但馬と申
         一揆之大正又罷在
         大権現様を掛目馳来候処
         出羽守家老服部兵部懸塞
         但馬と兵部相戦処 兵部を
         但馬突殺申候 則出羽守懸合
         槍下ニ而但馬を討捕申候 此乱ニ
         大権現様御鎧ニ鉄炮二当候
         由申候 勢州於白子御舟ニ被爲
         召 御鎧御脱被成処 御鎧之内ニ
         打返候鉄炮之玉二 船中ニ落
         候由申伝候
        一大権現様供奉仕 出羽守伊勢
         路迄罷越申候 道中被爲召候
         御馬ニ遠矢中り草臥申候ニ付
         出羽守乗替之馬指上 被召替之
         跡 其所者御敵仕者無之故
         御按申上候処 御傍に被寄召
         ●言難為家来為主人 抛一
         人衆事 其忠は以不軽 出羽守者
         無由●処相頼 一言堅守不
         惜神命自身相働 家臣数
         多被討被●大事厚●之段
         生々世之難御意被思召候 是又
         穴山梅雪儀 武田之威風ニ驕
         他人を不頼返故 彼討歩卒
         源姓之名を朽 無懺成事ニなると
         上意之処 兵部少輔殿御申候者
         出羽守猶有別心者面々も当
         国ニ可瀑骸之処 俘虜之●
         ●と御挨拶之由申 其時
         大権現様御別指ニ被成候円
         棟鎬誂天国有銘之御小
         脇差 御手自ラ出羽守へ被下
         置候 就件脇差●持来
         上意之●伝由仕候 以上略仕候
         其天国持伝罷在申候
                     付札 往古安倍貞任御退治之節
                        源ノ頼儀公江従天子●●候
                        宝釼之旨御応答御座候由 旧記
                        有之候
        一大権現様無御恙無御帰国被成
         翌年服部半蔵殿為御使者
         備前大兼光御刀・御馬一疋
         黄金百両 御感書ニ被相添
         出羽守へ被下置候 右拝領之大
         兼光有銘之御刀 致所持候
         御感書之御文言 別紙ニ誌
         通ニ御座候
         亡父喜多村弥平兵衛儀 関原
         依軍功 従公儀被下置候御
         証文之写

            覚
        一今度御自身へ被宛行御加増
         千五百石 此物成江戸於御蔵
         出目指口共無相違可相渡由
         御蔵所へ申渡候 本知千五百石者
         本役 御加増千五百石者可為
         半役事
        一此度御附被成候与力五拾人之内
         弐拾五人者弐百石宛 廿五人者
         百五拾石宛 此物成清州於
         御蔵其方以加印之手配請取
         与力中へ可被相渡事
        一御自分知行御加増共三千石
         并与力知行八千七百五拾石 都合
         壱万七百石之身躰二被
         仰付候条 右知行高之通 御軍
         役御魁可相勤旨 御諚之間
         可被得其意候 右条々固
         厳命 証文如件
              小笠原監物
         慶長七年九月五日 書判
           喜多村弥平兵衛殿

         此時監物殿御家中ニ而御入候
         監物殿件之後和泉守殿と御         小笠原和泉守・吉次
         改被成候 和泉守殿之御嫡監物●
         御成候
        

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