津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■こちらは深川芭蕉庵

2023-01-11 13:03:10 | 地図散歩

            芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡)

 先に「関口芭蕉庵」に少しふれたが、これは芭蕉が神田上水の工事に関わった時、この場所に住んだのではないか等と言われるが、どうやら当時の「芭蕉記念館」的な感じがする。
逆に今はなくなってしまっているが深川に「深川芭蕉庵」があり、「古池や蛙とびこむ水の音」の名句を産んだ「蛙合せ」の興行が行われた場所として有名である。
随分多くの門人が集ったというから、この小さな庵での開催は考えられず、近くのお寺を借りての事ではなかったかという。
芭蕉庵には古池があったといい、左は中川不折描く処の「深川芭蕉庵」、右はその庵に芭蕉が描かれて居り、その古池の様子もうかがえる。

 この芭蕉庵どこにあったのかと思い、江戸古地図を開き、本所深川絵図」(ズームアップして左端にスライド)を眺める。
隅田川に小名木川が合流する辺りに万年橋があり、角は「紀伊殿」屋敷があり、その場所にこの芭蕉庵は存在したらしい。
深川常盤一丁目、隅田川の上流部は新大橋、下流は清洲橋である。

            

こちらは有名な広重の浮世絵「大はしあたけの夕立」、描かれているのが大橋、対岸に見えるのが安宅(あたけ)と言われる場所、
ここに幕府の御船蔵があったが、現在の新大橋一丁目である。芭蕉庵から上流わずかな距離である。
つまり芭蕉庵はこの橋を渡ってすぐ右手である。もっとも芭蕉存世のころには隅田川は両国橋しかなかったようである。

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■弥兵衛・弥平兵衛・弥次兵衛

2023-01-11 08:02:08 | 人物

  弥兵衛・弥平兵衛・弥次兵衛、これらのよく似た名前の人物、それぞれが喜多村姓の人たちである。
(1)、喜多村弥兵衛は江戸時代前期の町人で、徳川家康に従って江戸に入り江戸宿三人衆の一人となった。
(2)、喜多村弥平兵衛は先にご紹介した「明智一族・喜多村系図」に登場する、光秀の末子・内治麻呂その人である。
   その子が喜多村市之進で、阿波蜂須賀家に仕えたことが東北在住・HT氏所蔵の古文書「喜多村市之進覚書」で判明した。
   ご本人の御承引を得てその内容をご紹介できるように努力していきたい。
(3)、喜多村弥次兵衛は 黒田藩大目付で「喜多村弥次兵衛記錄」なるものを残した人物である。
   『享保の唐船打潰記 黒田藩大目付喜多村弥次兵衛記録 宮若市古文書勉強会 正誤表付 平成20年』という刊本があるらしく
   読んでみたいと思っている。
                                                           

(2)の喜多村弥平兵衛の子・市之進以降の子孫が、阿波藩で永く仕えられたのかはHT氏の論考では解明されていないように思われる。
喜多村という苗字で(3)の弥次兵衛は黒田藩で大目付を勤めたというが、(2)の喜多村氏との関りはないのかという、素朴な疑問が生じている。
「明智系・喜多村氏」のことが、頭を占領している昨今である。                          

コメント (2)
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