先に「■柴垣隆邸跡」をご紹介したが、熊本の右翼ともいえる柴垣隆氏をかこんでいる人々も又凄い人たちが伺える。
私は、右翼の巨魁ともいうべき頭山満などとの関りは知らないが、孫文との交流もあったという二人のことだから何らかの交流があったのだろうと推測している。
熊本史談会でまた何方かのお話が伺えればありがたいと思っている。
処で昨日の史談会で配られた資料の中の「コラム」にこの写真が取り上げられていて、一文が紹介されていた。
その最後の行に頭山家のことが書かれていて「頭山尋子が嫁いだ松任谷健太郎の腹違いの弟、功三郎、彼の息子がユーミンこと松任谷由実の夫・松任谷正隆である」とあった。
私は荒井由実として名を成した人が、結婚を機に夫の姓を名乗り音楽活動の上でマイナスになるのではないかと思ったりしたが、これはまさに下須の勘繰りで、その後のユーミンの活躍は正隆氏の力が相和して凄い躍進ぶりを見せている。
ユーミンは正隆氏の祖母尋子が頭山満である事を良く承知していたらしい。そしてそれを誇らしくさえ思っているようだ。
事を為すにあたっての揺るがない信念は、正隆氏にもうけつがれ、由美氏もまた松任谷の姓を芸名にも受け入れて思いを同じくしたと思われる。
音楽は平和の共通言語である。曽祖父さんの想いをのせて世界に羽ばたいているように思える。
出品者によって翻刻文が紹介されている。まことに有難い。引用させていただく。
今日御城ニ久しく
罷有、 御前にて色々
忝仕合之印可につキ
可申上存儀とも申候キも、
長座之間、 御きけんの
ほときつかひ被仕候、
もし 御前候てハと
はつかしく候へハ、一言も
御見聞可被下候、恐惶
かしく
十八日 忠興(花押)
細越中
(端裏書)
「(墨引)日向様まいる」
水野勝成は熊本にはゆかり深い人物である。水野家は家康の生母・お大の方の生家で私は山岡荘八の「徳川家康」を読んですっかりお大の方の
フアンになった。勝成はその甥、大名になる迄は大変苦労している。
勝成と忠興はほとんど同時代を生きた人、武人としてのイメージが共通しているように思うが、「茶会」の話が出るとは・・・・
忠興の書跡の勉強になる有難い真筆書状である。