斯テ兵庫頭ハ流浪ノ身ト成リ一族郎党共モ
皆散々ニ成ケル時其一族伊丹隼人正朝明・同主殿盛久同国
嶋上郡古曽部村ニ陰住テ世ヲ過シ如此古曽部村ト云ハ昔シ
能因法印カ住タリシ古跡ニテ其近キ邊リ各有所共少ナカラス 此村
内ニ加賀山ト云フ山有リシ故此時分ヨリ其住所ノ地名ニ依テ氏ヲ
加賀山トハ改メ穪ケリ 隼人正朝明三人ノ男子アリ長男ハ加賀山
八良初ハアタリ近キ高槻城主高山右近長房ニ仕 天正十
年六月十一ニ日豊臣太閤未タ筑前守殿ト申テ故右大臣殿
ノ御吊ヒ有ヘシトテ山城国大山崎ニ於テ明智日向守殿ト一
戦ノ時高山ハ所ノ案内知タレハトテ秀吉第一ノ先手ニ定メ
ラル時ニ源八久良十七歳長房ノ手ニ従ヒ初テ戦テ首級ヲ
得タリ 後ニハ名ヲ少右衛門ト改陸奥国會津ニ下リ蒲生飛
騨守氏郷ニ仕奥州ニテモ手ニアイシ由其後又丹後宮津
ニ至リテ細川越中守源朝臣ニ仕奉リ所々ノ戦ニ御供シ功
有リシ中ニモ慶長五年庚子八月美濃国岐阜ノ城攻ニ戦功
ヲ擢ンテ又其翌月関ケ原ノ戦ニモ其功多カリシ故公ノ御恵ミモ
尋常ナラス 恩賞モ度重リテ六千石ノ知行ヲ領シ辱クモ
御諱ノ御文字ニ兼常ノ御刀ヲ賜ハリ隼人正興良ト召シ
牧左馬允興相・志水伯耆清久・増田蔵人正重抔云フ人々ト
同様ニ召仕ハレ居たリシカ元和元年八月十九日豊前国
小倉ニテ身マカリヌ 年五十九 註:切支丹の棄教を拒否して誅伐される