津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■山東火が電車を止めた場所?

2023-05-03 08:54:20 | 熊本

    

     昭和4年に建設された熊本市公会堂

 以前■洗馬川(坪井川)沿いを電車が走るで書いたが、熊本市電の開通は大正13年の8月1日である。
種田山頭火が泥酔して市電を止めたという話は有名な話として残されているが、はっきりした日時は判らないが「大正13年の夏」だとされる。つまり山頭火は開通早々の電車を止めたという事になる。
この事実が知られるようになったのは、昭和26年11月山頭火に関する座談会が催された際、元妻のサキノが発言したことによる。
木庭某なる人物が山頭火を助けて報恩寺につれて行った。その人物が特定されたのは平成18年に到り、同姓の木庭實治氏(熊本史談会会員)によってである。
そしてその場所は、現在の熊本市民会館がある辺り、かっての熊本市公会堂の前あたりだと言われている。
この表現はサキノの発言によるものだろうが正解とは言えない。事件当時熊本市役所がかろうじて建設されてはいるが、上の写真の熊本市公会堂はまだ建設されてはないから、「後に建設された熊本市公会堂の前あたり」としなければならないのだろう。
そんな場所に当時はどんな建物が建っていたのだろうか、またこれを調べてみたいという思いが沸々としてきた。

           参考:洗馬川(坪井川)沿いを電車が走る・ルート図発見 

追記:05/06
   上記写真の熊本市公会堂が出来る前にはドーム付きの木造の公会堂+日本館がありました。
   左の建物は移築され日本館は昭和42年迄現存したと言いますが、私には記憶がありません。
   

コメント (2)
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■亡き家臣の家族に対する想い

2023-05-03 06:27:27 | 人物

 細川家の歴史を振り返ると、一色義有のだまし討ちや、その遺児の誅伐事件などの黒歴史や、キリシタンの加賀山隼人正やその娘と聟・小笠原弦也一族の誅伐、細川興秋の老臣・飯河豊前‐肥後父子の誅伐、そして興秋の賜死事件など眉をひそめたくなる事件が枚挙にいとまない。 
忠興二男・興秋が元和元年六月六日生害にあたり、介錯役を務た松井右近(入江右近)なる人があり、事件後行方知れずになった。
この人物は異国人だが、忠興の娘(長)婿で、豊臣秀次の謀反事件に連座して罪を得た前野出雲守に仕えていたが、その身を忠興に託した。
関が原の戦では、忠興の下で「首一つ」の手柄を挙げている。つまりその後、興秋に附けられたことになる。

細川家正史・綿考輯録は右近について次のように紹介している。

   初五郎作 後松井右近と改、但馬国主前野但馬守高麗陳之時取来られしもの也、御息出雲守禿童にして
   御つかひ候
しが、秀次公叛逆御一味の由にて前野氏中村式部少輔ニ御預之時出雲守殿より異国者ニ而候
   可愛からせ給へと忠興
君へ被仰進候者也


 元和九年、右近の行方が分からなくなってから三年後、そんな右近の遺児の縁邊について、三齋や忠利は心を砕いている。
右近とは縁戚の関係にあるという山路太左衛門なる人があるが、この人物に右近の娘を嫁がせようという訳だが、「熊本県史料・近世編(一)」に其のあたりの事情がわかる文書が残されている。

  一 松井右近女共山路多左衛門遠親類之由候幸ニ候間此女多左衛門所へ遣度候
    但其方ニさし相候ハヽ不及申遣間敷候 御返事次第ニ候 此儀多左衛門ニ
    一切不申聞候間さたなき様ニ可被仕候事
  一 多左衛門事於同心此方へよひよせ可進候可被得其意候 恐々謹言
     (元和九年)五月三日       三齋 (御判)
              越中殿 進之候
            ママ
  一 松井右近女之事山河太左衛門ニ可被遣由此方ニ申定儀少も無御座候
    何時ニても被召寄可被仰聞候  太左衛門ハ散々相煩候て湯ニ入申候事
            九月四日           (忠利)
              魚住傳兵衛殿

ところで興秋は天草に逃れたとする説があるが真実の程は分からない。もしこれが真実であれば、右近も共に天草に入っているのかもしれない。
忠興にとっては、自ら自刃を申し付けた興秋の死は、一代痛恨事であったろう。その側近・右近の遺族の処遇もまた気に掛けていた事をうかがわせる史料である。

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