つい先ごろ■霜女宛米田是政書状を書いたが、昨日「細川家主要家臣」を眺めていて是政ではなく是季の間違いに気付いた。(おおいにまずい)
この霜女覚書は、ガラシャ夫人の最期を記したものとして知られるが、これは光尚の乞いに対して正保二年に霜女に親族である米田氏が書状で要請したものである。
上記ブログでは「是政」としたが、よくよく考えると是政は同じ時期に岐阜攻めで戦死している。息の是季(興季)の間違いであった。
この助右衛門是政、慶長五年(1600)八月廿三日岐阜攻の時、忠興の嫡男・与一郎忠隆の下で奮戦中、左脇を鉄炮で撃たれ「御用に立可申と存候所ニ無念なる事に候」と言い残して戦死した。42歳。見性院勲叔玄弘。
正保二年坪井の地に菩提寺「見性寺」が建立された。また、夫人・雲仙尼が明智一族であり坂本の西教寺にもお墓がある。
助右衛門の働きについては逸話が残されている。天正十一年(1583)一月末、秀吉は滝川一益を攻めるが、細川軍は亀山の城を攻めた。その折の話に「唯今黄絹に日の丸の紋を付たる者群を抜てかせきたるハ誰なるそ」「見て参れ」との秀吉の仰せに、御小姓野々村伝右衛門なる人が確認に駆け出す。程なく帰ると「米田(是政)にて御座候、指物日の丸ニ而ハ無之、敵之鉄炮にて指物を破り御陳にてハ日の丸と見へ候か」と報告、「秀吉公甚御感被成候」て、助右衛門の働きに対し感状を賜り「向後指物に日の丸を用へき旨被仰出候」となった。25歳の頃の話である。
さて岐阜攻めの時の指物ははたして「日の丸」だったのだろうか。こちらは未だ確認する術がない。